- Authors

- Name
- Youngju Kim
- @fjvbn20031
はじめに — コイン投げ一回を断った経済学者
1963年、ポール・サミュエルソンは昼食の席で同僚に賭けを持ちかけました。コインを投げて表なら200ドルを渡し、裏なら100ドルを受け取るというものです。期待値は明らかにプラスなのに、同僚は断りました。代わりにこう言いました。一回なら嫌だが、100回ならやってもいい、と。サミュエルソンはこの答えが論理的に一貫していないことを示す短い論文を残しました。なぜ人がそう答えるのかについての説明はありませんでした。
その説明は16年後に現れます。「損失は利得の二倍痛い」という一文に要約されるプロスペクト理論です。この一文はいま、交渉の教科書、価格実験の資料、プロダクトの企画書に定数のように登場します。論文で読む心理学の今回は、その定数の出典を直接開いてみます。原論文に実際に何があり、有名な数字はどこから来て、45年のあいだにどの部分が生き残ったのかを、順番に読み解きます。
1979年の論文が実際にしたこと
ダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman)とエイモス・トベルスキー(Amos Tversky)の1979年エコノメトリカ論文は、タイトルから挑発的です。「Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk」。当時の標準は期待効用理論でした。人は各結果の効用に確率を掛けて足し、その合計が最大の選択肢を選ぶ、という考え方です。この理論の中核となる公理のひとつが独立性です。二つの選択肢に共通してついている確率を同じだけ減らしても、選好の順序は変わらないはずだ、というものです。
カーネマンとトベルスキーが動員した材料は実験装置ではなく質問紙でした。イスラエルのヘブライ大学、スウェーデンのストックホルム経済大学、米国のミシガン大学の学生と教員に仮想的な選択の設問を配り、答えを数えるやり方です。金額の単位はイスラエル・ポンドで、論文は当時のイスラエルの世帯の月間純所得の中央値が約3,000イスラエル・ポンドだったと明記しています。設問の金額が回答者の感覚として決して小さくなかった、という意味です。
中核となる四つの設問の結果はこうです。
| 設問 | 選択肢A | 選択肢B | Aを選んだ割合 |
|---|---|---|---|
| 問題3(95人) | 4,000を80パーセントの確率で得る | 3,000を確実に得る | 20パーセント |
| 問題4(95人) | 4,000を20パーセントの確率で得る | 3,000を25パーセントの確率で得る | 65パーセント |
| 問題3の損失版(95人) | 4,000を80パーセントの確率で失う | 3,000を確実に失う | 92パーセント |
| 問題4の損失版(95人) | 4,000を20パーセントの確率で失う | 3,000を25パーセントの確率で失う | 42パーセント |
表は二度読む必要があります。問題4は問題3の二つの確率を同じように四分の一へ縮めただけです。独立性の公理どおりなら選好は保たれるはずなのに、多数意見が20パーセントから65パーセントへ逆転しました。確実な3,000は、確実性を失った瞬間に魅力を失ったのです。これが確実性効果です。
下の二行はさらに興味深いところです。符号を反転させただけなのに、回答が鏡のように反射します。利得の領域で確実な方を選んでいた人たちが(80パーセント)、損失の領域では賭けを選びます(92パーセント)。確実に3,000を失うくらいなら4,000を失うリスクを取る、というわけです。これが反射効果です。
ここで正直に押さえておくべきことがあります。このデータは実際にお金がやり取りされた実験ではなく、仮想的な選択です。標本は大学の構成員であり、各設問の回答者は100人に届きません。著者たち自身もこの限界を論文に書き添えています。プロスペクト理論の地位はデータの規模から来たのではなく、既存の理論が原理的に説明できないパターンを最小限の道具であぶり出したという点から来ました。
価値関数の三つの特徴
論文の結論は三行の価値関数です。
第一に、参照点依存。期待効用理論は最終的な資産の状態を評価します。プロスペクト理論は参照点に対する変化を評価します。年収800万円がうれしいか悲しいかは、800万という数字ではなく、去年がいくらだったか、隣の席がいくらかで決まります。この一行が残り全部の根っこです。
第二に、利得の領域では凹、損失の領域では凸。参照点から遠ざかるほど感度が鈍るという意味です。0円と10万円の差は大きく感じられますが、110万円と120万円の差は同じ10万円でも小さく感じられます。この曲率が、利得における危険回避と損失における危険追求を同時に作り出します。
第三に、損失側の傾きがより急。原点で曲線が折れ、左側が右側より急になります。これが損失回避です。
注意したいのは、1979年の論文がこの三つ目の特徴を定性的にしか述べていないことです。グラフに数字は付いていません。私たちが知っている「約2倍」という係数は13年後の後続論文から出てきます。トベルスキーとカーネマンの1992年の累積プロスペクト理論の論文は、大学院生25人の選択をモデルに当てはめ、損失回避係数の中央値2.25、価値関数の指数0.88を得ました。つまり教科書のあの数字は、25人から出た中央値です。
コードで理解する — 係数ひとつが賭けを断らせる
係数2.25が実際に何をしているのかは、自分で計算してみるのが早道です。サミュエルソンの同僚が向き合ったあの状況、つまり期待値がプラスのコイン投げについて、係数を変えながら判断を見てみます。
# prospect theory value function, with the exponent Tversky & Kahneman
# fitted in 1992: v(x) = x**0.88 for gains, -lam * (-x)**0.88 for losses
ALPHA = 0.88
def value(x, lam):
return x**ALPHA if x >= 0 else -lam * (-x) ** ALPHA
WIN, LOSE = 110, -100 # a coin flip worth +5 in money
print(f"expected value (money): {0.5 * WIN + 0.5 * LOSE:+.2f}")
for lam in (1.0, 1.5, 2.0, 2.25, 3.0):
eu = 0.5 * value(WIN, lam) + 0.5 * value(LOSE, lam)
print(f" lambda {lam:4.2f} -> expected utility {eu:+7.2f}"
f" {'accept' if eu > 0 else 'reject'}")
# how big must the upside be before lambda = 2.25 accepts a 100 loss?
print(f"break-even win at lambda 2.25: {(2.25 ** (1 / ALPHA)) * 100:.0f}")
# output:
# expected value (money): +5.00
# lambda 1.00 -> expected utility +2.52 accept
# lambda 1.50 -> expected utility -11.87 reject
# lambda 2.00 -> expected utility -26.25 reject
# lambda 2.25 -> expected utility -33.45 reject
# lambda 3.00 -> expected utility -55.03 reject
# break-even win at lambda 2.25: 251
読み取るべきことが二つあります。ひとつ、係数が1.0のときは曲線がまだ曲がっているのに賭けを受け入れます。拒否を作り出すのは曲率ではなく損失側の傾きだという意味です。ふたつ、最後の行が実務的にいちばん役に立ちます。係数2.25の人に100の損失リスクを取らせようとするなら、上振れは約251なければなりません。5パーセント有利な条件では話にならず、二倍半が必要なのです。組織でなぜあれほど多くの合理的な提案が却下されるのかについての、計算できる答えです。
損失回避は本当に二倍か — 再検討の記録
シリーズのルールどおり、反対の証拠も見ます。この箇所が今回もっとも重要です。
まずは再現される側から。ルジェリらが2020年にネイチャー・ヒューマン・ビヘイビアで発表した大規模な再現研究は、19カ国4,098人に1979年論文の設問構造をそのまま投げ直しました。確実性効果や反射効果といった中核の選択パターンは、国と文化を越えて頑健に再現されました。このシリーズで扱った自我消耗とは違い、プロスペクト理論の骨格は再現性の危機を通過したのです。
揺れているのは骨格ではなく、数字と解釈です。
第一に、係数は定数ではありません。損失回避係数を推定した研究はすでに数百件に達し、それらを集めた近年のメタ分析は、平均がおおむね2の近辺だと報告しながらも、研究間のばらつきが非常に大きいことを同時に指摘しています。金額が小さくなると係数は1に近づき、慣れた領域ほど、経験が積み上がるほど小さくなります。「人間の損失回避係数は2.25だ」という文は、「人間の体温は36.5度だ」と同じ種類の文ではありません。
第二に、ガルとラッカーは2018年の論文でもっと根本的な問題を提起しました。損失回避の代表的な証拠として引用される現象、たとえば保有効果や現状維持バイアスが、損失回避なしでも説明できるというのです。人が持っているものを手放さない理由は、失うのがつらいからではなく、単に動かないという慣性のせいかもしれませんし、どちらを先に思い浮かべさせるかという質問順序の効果かもしれません。彼らは、大きさの等しい利得と損失が対称的な反応を生んだ研究も少なくないと整理しています。
第三に、実際に崩れた事例があります。カーネマンとクネッチ、セイラーの1990年のマグカップ実験は、売る値段が買う値段の二倍あまりだという保有効果の象徴でした。ところがプロットとザイラーは2005年、練習試行を十分に与え、匿名性を保証し、手続きを細かく説明すると、この差の大部分が消えるという結果を発表しました。観察されたもののかなりの部分が、選好ではなく実験手続きの副産物だった可能性です。
正直な要約はこうです。参照点、曲率、非対称性という構造は生き残りました。非対称性の大きさをひとつの数字で釘づけにする慣行は生き残りませんでした。
フレーミング効果と確率加重関数
プロスペクト理論の残り半分は、結果ではなく確率を扱います。
まずフレーミングから。トベルスキーとカーネマンが1981年にサイエンスに載せたアジアの疾病問題は、同じ状況を二通りに書きました。600人が死ぬと予想される疾病に二つの対策があります。助かる人数で書いた条件では(152人回答)、72パーセントが「200人を確実に助ける」を選びました。死ぬ人数で書いた条件では(155人回答)、78パーセントが「三分の一の確率で誰も死なず、三分の二の確率で600人が死ぬ」を選びました。二つの条件の結果は算術的に完全に同じです。参照点が生存者数から死亡者数へ移っただけなのに、多数意見が反対へ振れました。
確率加重関数はもっと静かですが、応用範囲は広いものです。人は確率をそのまま使わず、決定加重に変換して使います。この曲線の特徴は、小さい確率の過大評価と、中程度以上の確率の過小評価です。当選確率100万分の1は実際よりずっと大きく感じられ、95パーセントは実際より小さく感じられます。
この一行が古い謎を解きます。同じ人が宝くじも買い、保険にも入るという現象です。期待効用理論ではこの組み合わせは困ります。リスクが好きだということと嫌いだということを同時に主張しなければならないからです。プロスペクト理論では一行で済みます。宝くじは小さい確率の大きな利得、保険は小さい確率の大きな損失であり、どちらもその小さい確率が過大評価される区間にあります。利得側では過大評価が危険追求として、損失側では危険回避として現れるだけです。
捨てるものと持ち帰るもの
捨てるもの1、係数を定数として使う習慣。「損失は利得の2倍」は、25人の中央値から出発し、教科書を経て物理定数のような扱いを受けるようになった数字です。自分のドメインでその値がいくつなのかは、結局は自分で測るしかありません。
捨てるもの2、あらゆる現象に損失回避を自動的に貼りつけること。人が変えない理由は、慣性、情報不足、切り替えコスト、面倒くささかもしれません。ガルとラッカーの指摘を真剣に受け取るなら、損失回避は複数の候補のひとつとして扱うべき仮説であって、デフォルトではありません。
捨てるもの3、仮想的な設問を高額の実際の決定にそのまま移植すること。元のデータは紙の上の選択でした。
持ち帰るもの1、金額より参照点を先に見ること。交渉で有効な問いはたいてい「いくらか」ではなく「何と比べてか」です。年収交渉、価格戦略、日程の組み直しも同じです。数字を変えるより、比較対象を決める方がしばしば強く効きます。お金の絶対額が生活に及ぼす影響が対数スケールだという年収と幸福の論争の結論とも噛み合う地点です。
持ち帰るもの2、同じ事実を二つのフレームで書いてみること。これは説得の技術ではなく自己点検の道具として使うときに値打ちがあります。助かった人数で書いたときと死んだ人数で書いたときで判断が変わるなら、その判断は事実ではなく文章に反応したものです。
持ち帰るもの3、小さい確率の前で自分の感覚を疑うこと。宝くじ、保険、災害への備え、セキュリティ投資はすべてこの区間にあります。ここでは直感の代わりに期待値を手で計算する方がましです。
最後にひとつ境界線を。フレーミングと参照点の操作は、説得の技術であると同時に操作の技術でもあります。同じ知識が「この特典を逃してしまいます」というダークパターンの文句を作り出します。区別の線は単純です。相手がフレームに気づいた後も同じ選択をしそうなら説得であり、気づいたら怒りそうなら操作です。
原文リーディングガイド
- 原論文: Kahneman, D., & Tversky, A. (1979). Prospect theory: An analysis of decision under risk. Econometrica, 47(2), 263-291.
- 係数が出てきた後続: Tversky, A., & Kahneman, D. (1992). Advances in prospect theory: Cumulative representation of uncertainty. Journal of Risk and Uncertainty, 5(4), 297-323.
- フレーミング: Tversky, A., & Kahneman, D. (1981). The framing of decisions and the psychology of choice. Science, 211(4481), 453-458.
- 大規模な再現: Ruggeri, K., et al. (2020). Replicating patterns of prospect theory for decision under risk. Nature Human Behaviour, 4(6), 622-633.
- 批判: Gal, D., & Rucker, D. D. (2018). The loss of loss aversion: Will it loom larger than its gain? Journal of Consumer Psychology, 28(3), 497-516.
- 保有効果の手続き依存性: Plott, C. R., & Zeiler, K. (2005). The willingness to pay-willingness to accept gap, the "endowment effect," subject misconceptions, and experimental procedures for eliciting valuations. American Economic Review, 95(3), 530-545.
読み方のヒント: 1979年の論文は数式が多そうに見えますが、前半の半分は設問と回答比率なのですらすら読めます。時間が5分しかないなら、価値関数のグラフ一枚だけを見てください。原点で折れて左側がより急なあのS字曲線に、論文全体が圧縮されています。その次は確率加重関数のグラフです。左端で曲線が対角線の上へせり上がる区間、そこが宝くじと保険が一緒に売られる場所です。次回は自分の行動に合わせて信念を書き換える認知的不協和です。