Skip to content
Published on

赦しの倫理 — 赦しは義務か選択か

Authors

はじめに — 解き放たれるのは誰か

古い話があります。二人の修行僧が道を歩いていると、川辺にたどり着きました。一人の若い女性が、水を渡れずに困っていました。

兄弟子はしばし躊躇したのち、その女性を背負って川を渡してやります。ところが、この修行僧たちには、女性の身体に触れてはならないという戒律がありました。

弟弟子は衝撃を受けます。川を渡ったあとも、彼は何時間も心の中で兄弟子を責め続けました。どうして戒律を破れるのか。兄弟子は本当に修行者なのか。

ついに耐えきれず問いただすと、兄弟子は言います。「私はあの女性を川辺で下ろして去った。ところが君は、まだあの女性を背負っているね」。

この逸話は、赦しの一つの真実に触れています。誰かへの恨みを抱えているとき、重い荷を背負っているのは、しばしば過ちを犯した当人ではなく、恨みを抱えた私たち自身だということです。

だからこそ、よく「赦しとは加害者ではなく自分自身を解き放つことだ」と言われます。聞こえはあたたかく、どこか知恵深い言葉のように響きます。

しかし、こう言うだけでは、あまりに易しすぎます。本当にそうでしょうか。すべてを赦さねばならないのでしょうか。赦しが義務だとすれば、ひどい目に遭った被害者にすら、私たちは赦しを求めてよいのでしょうか。

赦さないことは道徳的な欠陥でしょうか、それとも正当な権利でしょうか。そして、いったい誰が、何を、誰のために赦すのでしょうか。

この文章は、あたたかく見えて実はとても厄介な「赦し」という概念を、慎重に解きほぐしていきます。どちらか一方を強いることなく、複数の立場を丁寧に並べてみようと思います。結論を差し出すよりも、ともに考える場を設けることが、この文章の目的です。

あらかじめ一つ明かしておきたいことがあります。この文章は誰にも「赦しなさい」と勧めませんし、逆に「赦すな」とも言いません。赦しは善悪を簡単に分けられる問題ではなく、人それぞれに異なる傷と異なる時間の上で下される決断だからです。

ただ、その決断を少しでも澄んだ目で下せるように、赦しをめぐる概念の地図を、あなたとともに描いてみようと思います。地図は道を代わりに歩いてはくれませんが、どこに何があるかを知れば、足取りはいくらか軽くなるものです。


赦しとは何か — 恨みを下ろすということ

忘れることでも、大目に見ることでもない

まず赦しが「そうではないもの」から整理すると、概念が鮮明になります。何が赦しでないかを一つずつ消していくと、残るものが赦しの輪郭です。

赦しは忘却ではありません。忘れることは意志の問題ではなく、むしろ深い傷ほど忘れられません。「赦して忘れよ」という言葉はよく耳にしますが、この二つは別物です。

赦しは、覚えていながらもその記憶の刃を鈍らせることに近いものです。何があったかははっきり覚えつつ、その記憶が今日の自分をもう斬らないようにすることです。

赦しは黙認や弁護でもありません。「それなりの事情があったのだろう」と過ちを正当化するのは、そもそも赦しを必要としない状況です。

赦しはむしろ「あなたは確かに過ちを犯した」という判断を前提とします。過ちがなければ、赦すものもないからです。逆説的ですが、赦しは過ちをもっとも明確に認める行為なのです。

赦しは処罰の放棄とも異なります。法廷で罪の代償を払わせながらも心では赦すことができ、逆に処罰を免じながらも恨みはそのまま、ということもあります。

こうして見ると、赦しは忘れることでも、大目に見ることでも、罰を取り下げることでもありません。それはもっと内密な何かです。

感情の転換としての赦し

現代の哲学者がしばしば採用する定義によれば、赦しとは、正当な怒り(恨み、resentment)を自発的に下ろす内面の変化です。

十八世紀のイギリスの神学者にして哲学者ジョセフ・バトラー(Joseph Butler)は、その有名な説教集の中で、この「怒り」を深く分析しました。彼は、不当な出来事への怒りそれ自体は自然で、ときに正当な感情だと見ました。

怒りは、不当さを私たちに知らせる一種の警報です。誰かに害されたとき何の怒りも感じないなら、それはむしろ自らの尊厳に対する鈍感さかもしれません。

ただしバトラーは、その怒りが復讐心へと固まり、一人の人間を呑み込んでしまうのを放置することは戒めねばならない、と見ました。怒りは信号ではありえても、主人になってはならないのです。

バトラーの洞察は、今日でも新鮮に響きます。彼は怒りを無条件に悪とも、無条件に正当とも見ませんでした。怒りには二つの顔がある、というのです。

一つは、不当さに即座に反応する瞬間的な怒りです。誰かに突き飛ばされてカッとなる、ほとんど反射的な感情です。もう一つは、じっくり反芻した末に居座る、定着した恨みです。こちらのほうが長く続き、より危険です。

バトラーが主に戒めたのは後者でした。定着した恨みが一人の日常を蝕み、復讐の空想を際限なく巻き戻し始めるとき、それはもはや正義の感覚ではなく、心を閉じ込める牢獄になります。

この観点から見れば、赦しとは、その正当な怒りを自発的にやわらげる心の作業です。怒りが初めからなかったかのように振る舞うのではなく、怒りを十分に認めたうえで、それを手放すことです。

肝心なのは「自発性」です。強いられた赦し、無理に絞り出した赦しは、本当の赦しではありません。それはむしろ自己欺瞞か抑圧でありえます。

だからこそ赦しは命じにくいのです。「赦しなさい」という言葉は、「愛しなさい」という言葉と同じく、正しくはあっても強制しづらい要求です。誰かが刃を突きつけて「今すぐ心から赦せ」と言ったとして、その場から出てくるのは赦しの模倣にすぎません。

赦しでないもの
  忘却        — 記憶が消える(意志の外)
  黙認/弁護   — 過ちがなかったと見る(赦し不要)
  処罰の放棄  — 外的な結果の免除(感情とは別)
赦しであるもの
  正当な怒りを、過ちを認めつつ、自発的に下ろすこと

小さな思考実験 — 謝罪なき赦し

ここで少し考えてみましょう。ある人があなたに深い傷を負わせ、ついに謝らなかったとします。時が流れ、その人は世を去りました。

さて、あなたはその人を赦せるでしょうか。謝罪を受けていないのに、赦しは可能でしょうか。

多くの哲学者は「そうだ」と答えます。赦しは加害者が何をするかではなく、被害者の心に起こる変化だからです。謝罪は赦しを容易にしますが、赦しの必要条件ではない、というのです。

逆にある人々は「謝罪なき赦しはどこか空虚だ」と見ます。過ちを認めなかった人を赦すことは、過ちそのものを軽くしてしまう恐れがある、という懸念です。

この小さな思考実験だけでも、赦しがいかに多層的な概念かが見えてきます。続く節では、これらの筋目を一つずつ解いていきます。

赦しの三つの顔

もう少し整理してみると、私たちが「赦し」という一語で呼ぶものの中には、実は異なる顔が混じっています。

第一は、感情の赦しです。胸のうちで恨みがやわらぎ、その人を思い起こしても、もはや刃のような怒りが立たない状態です。これはもっとも内密で、もっとも強いにくい次元です。

第二は、意志の赦しです。まだ感情は追いついていなくても、「私はもう復讐しない」と決意する次元です。心はなお痛むものの、その痛みを行動の動力にしないと心に決めることです。

第三は、表現の赦しです。相手に「あなたを赦す」と言葉で伝える次元です。これは関係への信号であり、しばしば和解の扉を開く第一歩になります。

この三つは、ともに進むこともあれば、ずれることもあります。言葉では赦したと言っても心はまだうずくこともあり、心では手放したのにあえて言葉にしないこともあります。だから「赦したか」という問いは、実は「どの次元で赦したか」という、より繊細な問いに置き換えられるべきなのです。


赦しと和解 — 似て非なる二つの道

一人でできるのか、二人で必要なのか

赦しと和解(reconciliation)は、しばしば混同されますが、重要な違いがあります。この二つを区別できないと、私たちはしばしば見当違いのものを互いに求めてしまいます。

赦しは、原則として一人でも可能です。加害者が謝らなくても、すでに世を去っていても、被害者は自分の心の中で恨みを下ろすことができます。赦しは一人の人間の内面で起こる変化です。

一方、和解は二人以上で行うものです。和解は壊れた関係を再びつなぐ営みであり、信頼の回復を含みます。

そして信頼は、片方の努力だけでは蘇りません。加害者の真の悔い、責任の承認、変化の約束が必要です。両手が合わさってこそ音が鳴るように、和解は両者の仕事です。

この区別はなぜ重要なのでしょうか。私たちはしばしば「赦したなら、また以前のように付き合うべきだ」と迫ります。まるで赦しが自動的に関係の復元を意味するかのように。

しかし、誰かを赦しながらも、その人を再び信頼せず、近くに置かないことは矛盾ではありません。繰り返し害を与える人を赦すことはできても、自分を守るために距離を置くことはできます。

赦しが心の平和なら、和解は関係の再建であり、二つは別個の決断です。心では恨みを下ろしつつ、扉は閉じておく — これは十分に一貫した態度でありえます。

赦し和解
必要な人一人(被害者)二人以上
核心恨みを下ろす信頼を回復する
加害者の謝罪なくても可能おおむね必要
結果心の変化関係の再建

和解が難しい理由 — 信頼はゆっくり育つ

信頼が一度壊れると回復が遅いのには、理由があります。信頼とは、本質的に未来への賭けだからです。

私が誰かを信頼するということは、「この人はこれから私を害さないだろう」という予測に、自分を委ねるという意味です。その予測が一度裏切られれば、私たちは合理的に、より慎重になります。

だから和解には時間と証拠が必要です。一度の謝罪ではなく、変わった行いが着実に積み重なってこそ、壊れた信頼は再び育ちます。言葉で築くのが謝罪なら、行いで築くのが信頼です。

この点を理解すれば、「赦したのに、なぜまだ距離を置くのか」という催促が、いかに性急かが見えてきます。赦しは一瞬で起こりえても、和解はなかなかそうはいきません。

ある場面 — 長く疎遠だった二人の友

親しかった二人の友がいました。一方が他方の信頼を大きく裏切ったことがあり、二人は長いあいだ連絡を絶っていました。

幾年も経ったある日、過ちを犯したほうから先に連絡をします。彼は弁解しませんでした。ただ、自分が何を間違えたかを一つひとつ認め、その間に相手が抱えたであろう思いを汲んだと語ります。

傷ついていたほうは、その謝罪を受け入れました。心のうちの恨みが、いくらか軽くなるのを感じました。これが赦しです。

しかし彼は、すぐに以前のような親しい友に戻ったわけではありません。再び信頼が積み上がるには、もう少し時間が必要だと感じたからです。二人はゆっくりと、慎重に、再び言葉を交わし始めました。これが和解の始まりです。

この場面が示すように、赦しは一度の決意で起こりえても、和解はいくつもの季節を渡る営みです。そして赦しが必ず和解につながらねばならないわけでもありません。ときには赦しだけで十分であり、関係は礼儀ある距離にとどまるほうが、より健やかなこともあるのです。


赦せないもの — 限界をめぐる問い

誰が赦す資格をもつのか

もっとも重い問いはこれです。赦せない出来事もあるのか。そして、いったい誰が赦す権利をもつのか。

二十世紀のある思想家は、この問題を鋭く提起しました。彼は、被害を直接受けた人だけが、その加害を赦す権利をもつと見ました。

この観点によれば、第三者が、たとえ善意であっても、他人が受けた被害を代わりに赦すのは越権です。殺された人に代わって、誰が殺人者を赦せるでしょうか。赦す唯一の当事者は、すでに沈黙の中にいます。

この論点は、私たちに謙虚さを教えます。私たちはしばしば他人に「もう赦しなさい」と気軽に言います。しかし、その苦しみを直接経験していない者が、経験した者に赦しを促すのは、また別の暴力になりえます。

赦しは勧めることはできても強いることはできず、何よりも当事者のものだということを忘れてはなりません。他人の傷を代わりに清算する権限など、誰にもないのです。

赦す資格の思考実験

この「資格」の問題を、もう少し推し進めてみましょう。ある過ちは、一人だけでなく共同体全体に傷を残します。

たとえば、ある不当さが集団全体を狙ったとしましょう。このとき、その集団の一人が「私は赦す」と言ったなら、それは集団全体に代わる赦しでしょうか、それとも自分自身の分だけを下ろすことでしょうか。

たいていの思慮深い答えは後者です。一人は自分の傷だけを赦せるのであって、他人の傷まで代わりに処分することはできません。赦しは委任できる権利ではないのです。

この思考実験が示すところは明らかです。赦しは本質的に一人称の行為だということです。「私は赦す」とは言えても、「私たち皆に代わって赦す」とは、軽々しく言いがたいのです。

では「赦せない出来事」は本当に存在するのでしょうか。ある哲学者は、あまりに容易に赦される過ちなら、そもそも赦しという言葉が重くはなかっただろう、と言います。真の赦しは、まさにその「どうしても赦しがたいもの」の前でこそ意味をもつ、というのです。

これは逆説です。もっとも赦しがたい出来事こそ、赦しがもっとも輝く場でありながら、同時に、誰もそれを赦せと要求できない場でもあります。赦しが偉大に見えるのは、まさにそれが決して強いられえないからでしょう。

赦さない権利

ここで均衡のために、反対方向の観点も聞いてみましょう。一部の哲学者や心理学者は、赦しを過度に美化する文化を戒めます。

不当な目に遭った人に「赦せば心が楽になる」と勧めることが、ともすれば被害者にもう一つの負担を負わせ、正当な怒りを抑え込ませてしまう、というのです。

彼らは「赦さない権利」を擁護します。ある怒りは自らの尊厳を守る信号であり、不当さへの正当な抗議です。

すべてをあまりに早く赦してしまう人は、もしかすると自分を十分に尊重していないのかもしれません。赦しは必ずしも成熟の印ではなく、ときには不当さに立ち向かう力がなくて、あらかじめ降伏してしまうことでもありえます。

この観点では、赦しは美徳でありえても、決して義務ではありません。赦さないと決めた選択もまた、尊重されるべき道徳的立場です。

もちろん、正反対の伝統もあります。無条件の赦しをより高い理想と見る、宗教的・哲学的な観点です。ある種の愛は、値するかどうかを問わずに与えられるときにこそもっとも輝く、と見るのです。

この二つのあいだに、安易な正解はありません。それは各自が自らの傷と価値の前で下す決断であり、どちらも軽々しく優劣をつけることはできません。


正義と赦し — 衝突するのか、ともに進むのか

赦せば正義は消えるのか

よくある誤解の一つは、「赦しは正義を放棄することだ」という考えです。赦しと処罰が同じ天秤の上にあって、一方が上がれば他方が下がる、という図式です。

しかし先に見たように、赦しは感情の問題であり、処罰は制度の問題です。この二つは異なる領域に属します。

被害者が加害者を心で赦したとしても、社会は正義を立てるために、なお責任を問うことができます。個人の赦しが、そのまま社会的な免罪になるわけではありません。

むしろある人々は、真の赦しは正義を前提とすると見ます。過ちが過ちとして明確に名指され、責任が認められてこそ、意味ある赦しが可能になる、というのです。

過ちをうやむやに覆い隠すのは、赦しではなく回避です。真実が明らかにされていない場での「赦し」は、しばしば加害者の都合のためであって、被害者の癒しのためではありません。

修復的正義という実験

この緊張を扱う興味深い試みが「修復的正義(restorative justice)」です。それは処罰と赦しを対立させる代わりに、二つを一つの過程の中に編み込もうとする試みです。

伝統的な刑事正義が「どの法を破り、どんな罰を受けるべきか」を問うとすれば、修復的正義は「誰がどんな被害を受け、それをどう修復するか」を問います。

問いの中心が「法」から「人」へ、「処罰」から「修復」へと移ります。加害者と被害者が直接向き合って対話し、加害者が責任を認め、共同体がともに修復を模索する方式です。

歴史的に大きな対立を経験した一部の社会では、処罰と報復の悪循環を断つために、真実を明らかにし和解を模索する公的な手続きを試みたこともあります。

こうした試みは、「正義なき赦しは安く、赦しなき正義は果てしない復讐になる」という洞察を含んでいます。まず真実を明るみに出し、その上で修復の道をともに探そう、というのです。

ただし、このアプローチにも批判はあります。十分な処罰なしに和解を急げば、被害者の正当な怒りが埋もれてしまう、という懸念です。

「赦すのが正しい」という空気が強まれば、それはまた一つの圧力になります。自由であるべき赦しが義務にすり替わる瞬間、修復的正義は本来の趣旨を失いかねません。赦しと正義の均衡は、なお開かれた課題です。

応報と修復のあいだで

ここで私たちは二つの正義観に向き合います。一つは応報的正義で、過ちには相応の代償が伴うべきだと見ます。もう一つは修復的正義で、壊れたものを再びつなぐことを優先します。

この二つは、しばしば対立するかのように描かれますが、必ずしもそうではありません。責任を問うことと修復を模索することは、一つの過程の中で共存しうるのです。

重要なのは、どちらも被害者を道具にしないことです。応報が復讐へと堕落しないように、修復が強いられた赦しへと変質しないように — そのあいだの狭い道を歩むことが、正義の難しさです。

一つ明確にしておくべきことがあります。赦しは私的な領域の選択ですが、正義は公的な責任の問題です。被害者が個人的にどんな思いを抱こうと、社会が過ちを過ちとして記録し、再発を防ぐ責任は消えません。

だから「被害者が赦したのだから、事件は終わりだ」という論理は危険です。それは私的な赦しを、公的な免罪へとこっそりすり替えることだからです。赦しは心の事柄であり、責任は制度の事柄だという区別は、最後まで守られねばなりません。


心に及ぼす影響 — 研究が語ること

荷を下ろすとき、身体も軽くなる

心理学は赦しを、道徳的命令としてではなく「観察可能な心の働き」として研究してきました。良い悪いを判定するよりも、何が起こるかを見つめるアプローチです。

いくつもの研究が、慢性的な恨みや怒りが、ストレス、睡眠の問題、心血管の健康と関連しうることを示唆してきました。怒りを長く抱えることは、心だけでなく身体にも、何らかの痕跡を残すようです。

逆に、赦しに至った人々には、不安や抑うつが減り、情緒的な安寧が高まる傾向が観察されました。川辺に荷を下ろすとき肩が軽くなるのは、たんなる比喩ではないのかもしれません。

ただし、ここでは慎重さが必要です。こうした研究は相関関係を示す場合が多く、「赦せば必ず健康になる」といった断定は、科学的にも倫理的にも危険です。

相関関係は因果関係ではありません。より健康な人がより容易に赦しに至るのか、赦しが健康を導くのか、それとも第三の要因が両方に影響するのか — 研究だけで断定するのは難しいのです。

しかも、健康のために無理に赦しを絞り出すことは、先に述べた「強いられた赦し」の罠に陥りかねません。「健康になるには赦さねばならない」というメッセージは、ともすれば被害者にもう一つの義務を負わせることになります。

深い心的外傷を負った人に軽率に赦しを勧めることは、むしろ有害でありうるため、専門家は個人の歩みと安全を優先するよう助言します。赦しは処方箋ではなく、あくまで当事者が自分の歩みで近づいていく旅です。

赦しは結果ではなく過程

心理学の研究が共通して示唆する一つのことは、赦しが一瞬の決意ではなく、時間のかかる過程だということです。

怒りを十分に認め、その意味を理解し、徐々にそれを別の感情へと変えていく旅です。傷が癒えるのに時間が要るように、心の回復にも時間が要ります。

「赦した」と宣言したからといって、すぐに心が変わるわけではありません。ある日は赦したように思えても、ある日は再び怒りがこみ上げます。

本当の変化は、たいていもっと遅く、もっとでこぼこで、もっと人間的です。一歩進んでは半歩退くことを繰り返しながら、全体としては少しずつ軽くなっていくこと — それが赦しの実際の姿に近いのです。

ですから「なぜまだ赦せないのか」という自責は、あまり助けになりません。過程の途上にあることは失敗ではなく、ただ人間だという意味なのです。

よく引用される傾向慎重な但し書き
慢性的な怒りはストレスと関連しうる相関であり因果は断定しがたい
赦しは情緒的安寧と結びつきうる個人差が大きく、強制は逆効果
赦しは過程であり時間がかかる外傷例には専門的支援を推奨

自分自身を赦すということ

ここでよく抜け落ちる一つを付け加えたいと思います。赦しの対象は、いつも他人だけではありません。多くの人がもっとも赦しがたい相手は、ほかならぬ自分自身です。

過ぎた過ちを反芻しながら自らを際限なく断罪することは、他人への恨みに劣らず重いものです。自己赦免とは、自分の過ちを軽く見ることではなく、それを認め、責任を負ったうえで、その重さに永遠に押しつぶされはしないと決めることです。

ただし、自己赦免にも同じ但し書きがつきます。あまりに早い自己赦免は責任の回避へ、あまりに遅い自己赦免は自己虐待へと傾きえます。そのあいだの均衡は、他人を赦すことに劣らず繊細な作業です。


宗教と哲学の観点

多くの伝統が描く赦しの風景

赦しは、ほとんどあらゆる文化と宗教が深く思索してきた主題です。人類は長く「いかに傷を扱うか」を問うてきており、赦しはその問いへのもっとも古い答えの一つです。

ある伝統は赦しを、神的な慈悲の模倣として、無条件で寛大な愛の表現として見ます。ここで赦しは、値するかを問わない施しであり、人が神に似ていく通路です。

また別の伝統は、真の悔いと償いを赦しの前提条件として強調し、正義なき安易な赦しを戒めます。過ちを犯した者がまず立ち返り、正そうと努めるとき、はじめて赦しが意味をもつ、と見るのです。

東洋の一部の思想は、恨みそのものが心の毒だと見て、執着から離れる内面の自由として、赦しに近い態度を勧めることもあります。ここで肝心なのは、相手を免罪することではなく、恨みという荷から自らを解き放つことです。

興味深いことに、こうして出発点の異なる伝統が、しばしば似た結論にたどり着きます。無条件の愛を強調する側も、悔いを前提とする側も、執着の放下を説く側も、結局は「恨みに囚われたままでは、誰も自由ではいられない」という点では、おおむね一致するのです。

もちろん、その一致がそのまま「だから早く赦せ」という処方につながるわけではありません。ある伝統は、その自由に至るのに生涯を要しうること、そしてその道を急いてはならないことを、ともに教えます。

美徳か、危うさか

哲学者のあいだでも、赦しの位置づけは分かれます。同じ行為をめぐって、評価が正反対に食い違います。

ある者は赦しを、慈悲と寛大さの美徳として称えます。怒りの鎖を断ち、より広い心へと進むことは、人が到達しうる高い境地だ、というのです。

逆にある者は、正当な怒りをあまりに易々と捨てることが、自己尊重の欠如だと戒めます。不当さの前で当然怒るべきときに怒らないのは、美徳ではなく卑屈でありうる、というのです。

興味深いのは、この多様な声が、こぞって一つのことには一致する点です。赦しは軽く扱う主題ではないということ、そして真の赦しは過ちを直視することから始まるということです。

目を閉じて覆い隠すのは赦しではありません。目を開けてまっすぐ見たのちにこそ、赦しであれ不赦しであれ、はじめて真実の選択になるのです。


自分で点検する小さなクイズ

ここまでの議論をまとめる意味で、軽く自分で答えてみるに値する問いをいくつか選びました。正解の定まった試験ではなく、自分の考えを鮮明にしてみる鏡だと思っていただければ幸いです。

問い1. 次のうち、この文章でいう「赦し」にもっとも近いものはどれでしょうか。

  • (ア) 何があったかをきれいに忘れること
  • (イ) 「それなりの事情があった」と過ちを正当化すること
  • (ウ) 過ちを明確に認めつつ、正当な怒りを自発的に下ろすこと
  • (エ) 加害者への処罰をすべて免除すること

考えてみる点。この文章の定義によれば、答えは(ウ)に近いものです。赦しは忘却(ア)でも、黙認(イ)でも、処罰の放棄(エ)でもなく、過ちを直視したまま恨みを下ろす内面の変化だからです。

問い2. 「私は彼を赦したが、再び近しくは付き合わない」。この言葉は矛盾でしょうか。

考えてみる点。赦しと和解を区別する観点から見れば、矛盾ではありません。赦しは心の平和(一人で可能)であり、和解は信頼の回復(二人で必要)ですから、一方を選び他方を保留することは十分に一貫しています。

問い3. 直接被害を受けていない人が、加害者を「代わりに赦す」ことはできるでしょうか。

考えてみる点。正解はありませんが、多くの思慮深い見解は「赦しは一人称の行為だ」と見ます。一人は自分の傷だけを赦せるのであって、他人の傷を代わりに処分する権限はない、というのです。

問い4. 「健康になるには赦せ」という助言の危うさは何でしょうか。

考えてみる点。それは自由であるべき赦しをもう一つの義務に変え、相関関係を因果関係と取り違えさせかねません。さらには、深く傷ついた人への軽率な圧力になりえます。

これらの問いに正解することよりも、自分がどこでためらうかに気づくことのほうが、ずっと貴いのです。ためらいのある場こそ、赦しが本当に難しい場だからです。


おわりに — 川辺に下ろす稽古

もう一度、はじめの二人の修行僧の話に戻りましょう。兄弟子が正しかったのは、過ちを軽く見たからではありません。

彼は当然なすべきことをなし、それを川辺に下ろしただけです。何が正しかったか、何が戒律だったかをはっきり知りながら、それを背負い続けないと決めたのです。

赦しとは、もしかするとそのように、何が過ちだったかを明確に知りながらも、それを背負い続けないと決める稽古なのかもしれません。記憶を消すことではなく、記憶の重さを扱う術を学ぶことです。

しかし、この文章が繰り返し強調してきたように、赦しは誰にも強いることができません。それは美徳でありえても義務ではなく、慰めでありえても処方ではありません。

赦すかどうか、赦すならいつどのように赦すかは、結局のところ、傷ついた当事者が自らの時間と尊厳の中で下す決断です。誰も、その決断の時計を代わりに回すことはできません。

そして、その決断がどちらであれ、私たちはそれを尊重しなければなりません。赦すと決めた人の寛大さも、赦さないと決めた人の正当さも、ともに人間の深さを映し出すからです。

もしかすると、私たちが互いにしてやれるもっともやさしいことは、相手の荷を代わりに下ろしてやることではなく、その人が自分の歩みでその荷を扱えるよう、傍らで待つことなのかもしれません。

そしてもう一つ。この文章で私たちはずっと「赦す人」の席から語ってきましたが、誰もが生きるうちに「赦しを乞う人」の席にも座ることになります。その席に座ったとき私たちにできることは、相手に赦しを強いないことです。

真の謝罪は赦しを要求しません。ただ過ちを認め、責任を負い、変わろうと努めるだけで、赦すかどうかはまるごと相手のものとして残しておきます。もしかすると、赦しの倫理でもっとも難しい箇所は、赦しを与えることではなく、赦しを待てることなのかもしれません。

川辺に荷を下ろすことに、定まった時間割はありません。ある人は早く下ろし、ある人は生涯抱えていきます。そして、そのどちらも間違ってはいません。私たちにできるのは、それぞれの川辺で、それぞれの歩みを尊重することだけです。

ですから、この文章の最後の一文は、結論ではなく問いであるべきです。あなたの川辺には、いま何が置かれているでしょうか。そして、それを下ろすかどうかは、まるごとあなたのものなのです。

考えるための問い

  • 赦しと和解を区別するなら、あなたは誰かの「赦したが、再び近しくはしない」という決断をどう評価しますか。
  • 直接被害を受けていない第三者が加害者を赦すことは可能でしょうか、それとも越権でしょうか。
  • 赦しが健康に良いという研究があったとしても、「健康のために赦せ」という勧めには、どんな危うさがあるでしょうか。
  • 謝罪なき赦しと、謝罪のあとの赦しは、本質的に異なるものでしょうか、それとも同じものでしょうか。
  • 「赦さない権利」という表現に、あなたは同意しますか。その権利にも限界はあるでしょうか。
  • あなたがもっとも赦しがたい相手が自分自身だったことはありますか。自己赦免と他者への赦しは、どう違うでしょうか。
  • 真の謝罪が「赦しを要求しない謝罪」だという言葉に、あなたは同意しますか。

参考資料