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幸福の哲学 — 快楽か意味か

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はじめに — もし幸福を買えるとしたら

ここで一つ想像してみましょう。ある天才科学者があなたに一台の機械を提案します。この機械に接続すると、あなたの脳はあなたが望むあらゆる経験を完璧に感じるようになります。偉大な小説を書くときの高揚、愛する人とともにいる温かさ、山頂に立ったときの達成感まで。すべてが本物のように生き生きとしていて、あなたはそれが機械のなかの幻想であることすら忘れてしまいます。ただ一つだけ条件があります。一生のあいだ、その水槽のなかに横たわっていなければならない、ということです。

あなたはこの機械に接続しますか。

これは哲学者ロバート・ノージックが一九七四年の著書で提案した有名な思考実験、いわゆる「経験機械」です。興味深いことに、多くの人がこの提案を断ります。完璧な快楽が保証されているにもかかわらず、です。

なぜでしょうか。わたしたちが望むものが、ただ楽しい感覚だけではないからでしょう。わたしたちは実際に何かを成し遂げたいと願い、本物の人々と関わることを望み、幻想ではなく現実のなかで生きることを求めているのです。

ノージックはこの思考実験を通して、一つのことを示そうとしました。もし幸福がただ良い感覚の問題であるなら、わたしたちは喜んで機械に接続すべきでしょう。しかし大多数がためらうという事実は、わたしたちが感覚の向こうにある何かを幸福の一部とみなしていることを明らかにします。

この小さな拒絶のなかに、幸福をめぐるもっとも古い問いが隠れています。幸福とは楽しい瞬間の総和なのでしょうか。それともそれ以上の何か、よく生きられた人生全体の姿なのでしょうか。

これは単なる暇つぶしの思索の問題ではありません。わたしたちが何を幸福と信じるかによって、わたしたちは時間をどう使うか、何を追い何を手放すかを、毎日異なるかたちで決めていきます。幸福観は、いわば人生の羅針盤なのです。

今日はこの問いをたどって、古代ギリシアの庭園から出発し、現代の心理学の実験室までゆっくりと歩いていきたいと思います。

きれいな正解を手にして戻ってくる、とお約束するのは難しいでしょう。ただ、その旅の終わりに、あなた自身の答えを形づくるためのより良い材料を得られると信じています。

とても古い問い

幸福をめぐる問いは、人類そのものと同じくらい古いものです。ほとんどすべての文明が、それぞれのやり方で「よく生きるとは何か」を問うてきました。

興味深いことに、古代ギリシア人は幸福を指すとき、わたしたちが思い浮かべるものとはかなり異なる絵を持っていました。彼らにとって幸福は、単に楽しい気分ではなく、一人の人間の人生全体がどれほど見事に展開したかに関わるものでした。そのため、ある人が幸福だったかどうかは、その生が終わってはじめて十分に語れる、と考えられることもありました。

この点は、今日のわたしたちの言い方と対照的です。わたしたちは「今日は本当に幸福だった」のように、幸福を瞬間の気分としてよく使いますから。

同じ言葉のなかに、異なる二つの世界が収まっているわけです。この文章でわたしたちがたどる二つの筋道、すなわち快楽としての幸福と繁栄としての幸福は、まさにこの古い緊張から生まれます。

快楽主義 — 誤解されたエピクロスの庭

幸福を快楽と同一視する見方を、哲学では快楽主義(hedonism)と呼びます。そしてこの思想の代表者としてよく挙げられるのがエピクロスです。ところが、ここに大きな誤解が一つあります。

今日わたしたちは「エピキュリアン」という言葉を、豪華な晩餐や美食、ぜいたくな快楽を楽しむ人を指して使います。しかし、もしエピクロス本人がこの姿を見たなら、きっと首を横に振ったことでしょう。

紀元前四世紀のアテナイで「庭園(The Garden)」と呼ばれた共同体を率いたこの哲学者は、実はとても質素に暮らしていました。彼が勧めた食事はおもにパンと水で、チーズが一切れあればそれでごちそうにできる、と冗談を言ったと伝えられています。

彼が建てた「庭園」は、当時としてはかなり特別な場所でした。身分や性別を問わず人々を受け入れ、大それた野望や政治的な出世のかわりに、素朴な友情と思索を分かち合う空間だったと伝えられています。

エピクロスにとって快楽とは、騒がしい感覚の爆発ではありませんでした。彼が語った真の快楽は、二つにまとめられます。

一つは身体に苦痛がない状態、すなわちアポニア(aponia)です。空腹や痛みといった身体的な欠乏が取り除かれた安らかな状態ですね。もう一つは心に乱れがない穏やかさ、すなわちアタラクシア(ataraxia)です。不安と恐れが鎮まった静かな心の状態です。

言いかえれば、彼が求めたのは足し算の快楽ではなく引き算の快楽、つまり苦痛と不安の不在だったのです。より多くの刺激を積み上げることではなく、わたしたちを苦しめるものを取り除くことに幸福があると見たのです。

この観点から見ると、節制は快楽の敵ではなく、むしろ味方です。欲望を減らすことが、そのまま喜びを減らすことではない、というわけです。

エピクロスは欲望を三つに分けて説明したと伝えられています。

第一は、自然で必要な欲望です。空腹のときの食べ物や渇いたときの水のように、満たされなければ苦痛がともなう欲望ですね。第二は、自然だが必要ではない欲望です。豪華な料理や高価な酒のように、なくても生きられるが、あれば楽しいものです。第三は、空虚でむなしい欲望です。名誉や限りない富のように、いくら満たしても満足に至らないものです。

彼は第一の欲望さえ満たせば十分であり、残りを追えば追うほどかえって心の平穏が壊れる、と考えました。高価なワインを渇望するうちに、澄んだ水一杯の素朴な満足を失ってしまうからです。欲望が少ないほどそれを満たすのは易しくなり、満たしやすいほど心は揺らがなくなります。

もう一つ興味深いのは、エピクロスが友情を大いに重んじていたことです。彼は穏やかな人生のために必要なもののうち、もっとも貴いものが友であると考えました。豪華な料理をひとりで食べるより、素朴な食べ物を友と分かち合うほうが、はるかに大きな喜びだというのですね。

死への恐れを払いのけよ、という彼の有名な教えも、この平静の一部です。「死はわたしたちにとって何ものでもない。わたしたちが存在するかぎり死はなく、死が訪れればわたしたちはもはや存在しないのだから。」恐れを軽くすること、それが彼の語った幸福の核心でした。

ですから、快楽主義をただ「楽しんで生きよう」という哲学として理解するのは適切ではありません。少なくともエピクロスの快楽主義は、むしろ欲望を治め、心を静かに整える、一種の節制の技に近いものでした。

今日「エピキュリアン」という言葉が帯びた華やかなイメージと、エピクロスがパンと水で味わおうとした平穏とのあいだの隔たりは、それゆえ実に意味深いものです。わたしたちが幸福と呼ぶものが、本当により多くの刺激にあるのか、それともむしろ引き算にあるのかを、問い直させるからです。

エウダイモニア — アリストテレスの繁栄する人生

快楽が幸福のすべてではないとすれば、その先には何があるのでしょうか。この問いに対して、もっとも深く影響力のある答えを示したのがアリストテレスです。

アリストテレスはその著書『ニコマコス倫理学』のなかで、幸福を指してエウダイモニア(eudaimonia)という言葉を用いました。この語はしばしば「幸福」と訳されますが、正確には「よく生きること」「人間として繁栄すること」により近いものです。一瞬の気分ではなく、人生全体のあり方を指す言葉なのです。

アリストテレスの論証はこう始まります。あらゆるものには固有の機能があります。ナイフの良さはよく切ることにあり、目の良さはよく見ることにあります。

では、人間固有の機能とは何でしょうか。彼はそれを、理性にしたがって活動する能力に見いだしました。動物も感覚を感じ、植物も養分を受けて育ちますが、理性を発揮して思考し選択するのは人間だけの務めだというのです。

したがって、人間にとって良い人生とは、理性を卓越して発揮しながら生きる人生です。そしてこの卓越を彼はアレテー(arete)、すなわち徳(virtue)と呼びました。

ここで肝心なのは、エウダイモニアがわたしたちの持つ何らかの状態ではなく、わたしたちの行う活動である、という点です。幸福はソファに座って享受する何かではなく、徳にしたがって生きる過程そのものです。

勇気をもって行動し、正しくふるまい、節制と知恵を発揮する毎日の実践のなかで、はじめて人間は繁栄します。幸福は名詞というより動詞に近いわけです。わたしたちが静かに所有するものではなく、絶えず行い、つくり上げていくものなのです。

アリストテレスのもう一つの有名な洞察は「中庸」です。徳とは両極端のあいだの適切な均衡点にある、というのです。

たとえば勇気は無謀と臆病のあいだにあり、寛大さは浪費とけちのあいだにあります。過ぎれば一方の極端へ傾き、足りなければもう一方の極端へ傾きます。徳は、その間の適切な位置を見つける技なのです。

この均衡点は数学の公式のように定まってはおらず、状況に応じて見分ける実践知(プロネーシス)を通して見いだすほかありません。同じ行動も、ある状況では勇気であり、別の状況では無謀でありうるからです。

彼はまた、幸福が一朝一夕に完成するものではないと考えました。「一羽の燕が来たからといって春が来たわけではなく、一日が良かったからといって人が幸福なわけでもない」という彼の言葉が、これをよく示しています。

エウダイモニアは一瞬の絶頂ではなく、生涯をかけて積み上げていく人生の形です。この意味で、アリストテレスの幸福は短距離走ではなくマラソンに近いものです。一度の華やかな達成より、こつこつと徳を実践しながら固めてきた人生の全体の軌跡のほうが大切だというのですね。

興味深いことに、アリストテレスは外的な条件もある程度は必要だと認めていました。ほどよい財産、よい友、健康、さらにはいくらかの幸運までもが、繁栄する人生の助けになると見ていたのです。

この点で彼は現実主義者でした。食事を心配する人に、徳だけで幸福になれと言うのは空虚でありえますから。ただし、これらは幸福の材料にすぎず、幸福そのものではありません。

幸福の本質は、あくまで徳にしたがう活動にありました。財産と幸運は舞台を整えてくれるだけで、その舞台の上でどう生きるかは、結局わたしたち自身の務めだというのです。

二つの幸福を並べて見る

ここで二つの見方を一目で比べてみると、理解がいっそう鮮明になります。学者たちはしばしば、楽しみを中心とする幸福をヘドニア(hedonia)、意味と繁栄を中心とする幸福をエウダイモニア(eudaimonia)として区別します。

区分ヘドニア(快楽的幸福)エウダイモニア(繁栄的幸福)
核心の問いわたしは今、気分が良いかわたしはよく生きているか
時間の単位瞬間と経験人生全体の流れ
代表的な思想家エピクロスアリストテレス
追い求めるもの楽しみと苦痛の不在徳と潜在力の実現
測り方良い気分の頻度意味と成長の深さ
弱点すぐに慣れて消えてしまう即時の満足が少ない

この表を見ながら、一つの誤解をあらかじめ解いておきたいと思います。二つの幸福はたがいに敵ではありません。おいしい食事を楽しむことと、意味ある仕事に打ち込むことは、二者択一の問題ではないのです。

むしろ多くの研究者は、よく生きる人生とは、この二つがともに織り合わされた人生だと見ています。ただ、どちらにより重きを置くかによって、人生の手ざわりが変わるだけなのです。

この区分が役に立つのは、わたしたちが自分の幸福を点検するときに、二つの異なるレンズを持てるからです。ある日は「今日は十分に楽しかったか」を問い、ある日は「わたしは意味あるように生きているか」を問うことができます。二つの問いは異なる答えを与え、どちらも貴いものです。

快楽のトレッドミル — なぜ喜びはとどまらないのか

快楽主義には、一つやっかいな問題があります。喜びはなかなか一つところにとどまらない、ということです。心理学ではこの現象を快楽順応(hedonic adaptation)、または快楽のトレッドミル(hedonic treadmill)と呼びます。

その仕組みはこうです。良いことが起こると、わたしたちはしばらく幸福になります。新しい携帯電話を買ったり、望んでいた場所へ引っ越したり、昇進したりすれば、たしかに気分が良くなります。

しかし時間がたつと、その喜びはしだいに薄れ、わたしたちの満足の水準はふたたびもとの基準線へと戻っていきます。ほんの一か月前にはあれほど心躍らせた新しいものが、いつのまにかただの平凡な日常の一部になってしまいます。

すると、わたしたちはまた別の新しい刺激を探しに出かけます。まるでトレッドミルの上を走るように、どれほど走ってもその場にとどまっているのです。この終わりなき追跡こそ、多くの人が豊かさのなかでも妙な物足りなさを感じる理由かもしれません。

この現象を扱った古典的な研究として、宝くじの当選者と事故の被害者を比べた一九七〇年代の有名な研究がよく引かれます。最初の大きな衝撃が過ぎたあと、時間がたつにつれて、両方の集団の日常的な幸福水準が、思いのほか近い位置へと収束していった、という結果でした。

もちろんこの研究は標本が小さく限界もあるため、そのまま一般化するのは難しいものです。大きな出来事の影響が完全に消える、と断定するのも難しいでしょう。ただ、その後の多くの研究が、わたしたちが大きな変化にも驚くほど速く順応する、という点を繰り返し確かめてきました。

快楽順応が投げかける教訓は、奇妙にも両面を持っています。

一方で、これは慰めになります。大きな悲しみや試練を経験しても、わたしたちは思いのほかよく回復する存在だからです。順応という同じ仕組みが、苦痛に耐えさせてくれる頼もしい盾になってくれるわけです。

他方で、これは警告でもあります。より多くの物、より大きな達成だけを追っていては、持続する幸福にはたどりつきにくい、という意味だからです。わたしたちをよく回復させるその力が、良いことにも同じように働いて、喜びを速く色あせさせるのです。

では、トレッドミルから抜け出す道はないのでしょうか。研究が共通して示す手がかりがいくつかあります。

一つは、同じ楽しみを繰り返すよりも変化をつけることです。同じ刺激は速く色あせますが、変化は順応を遅らせます。もう一つは、良いものを当たり前と思わず感謝の心を育てることです。慣れてしまったものをあらためて味わう練習ですね。最後は、物質的な所有よりも経験や人間関係に投資することです。

興味深いことに、これらの提案は、エピクロスの節制やアリストテレスの徳から遠くないところで出会います。古代の知恵と現代の実験が、同じ方向を指し示しているわけです。

幸福をどう測るのか

哲学者たちが幸福の「本質」を問うあいだ、現代の心理学者たちは少し異なる問いと向き合いました。では、幸福をいったいどうやって「測る」のか、という問いです。

もっとも単純な方法は、直接たずねることです。「あなたは最近どれくらい幸福ですか」とか「全般的に、あなたの人生にどれくらい満足していますか」といった質問に点数をつけてもらう方式ですね。これを主観的安寧感(subjective well-being)と呼ぶこともあります。幸福を外側から定義するより、当人自身の評価を尊重しようとする接近です。

しかし、この方法には限界があります。人々は質問を受けた瞬間の気分、直前に思い浮かべたこと、さらには天気によっても答えが揺らぎます。そこで研究者たちは、一日のうちに何度もそのときどきの気分を記録させたり、一日の出来事を時間帯ごとにたどらせたりするなど、より精緻な方法を考案してきました。一度の調査より、複数の瞬間の記録のほうが実際の経験に近いと見たのですね。

ここでわたしたちは重要な一つに気づきます。「幸福」という一つの言葉のなかには、実はさまざまなものが入り混じっている、という事実です。

今この瞬間の気分、人生全体への評価、意味の感覚は、たがいに異なるものであり、どれを測るかによって結論が変わりうるのです。

幸福をめぐる多くの論争は、実は「どの幸福を言っているのか」の違いから生じることもあります。二人の人がすれ違ったまま議論するのは、それぞれが心のなかで別の幸福を思い描いているからかもしれません。

現代の幸福心理学 — 二つの自己の物語

二十世紀の後半から、幸福はもはや哲学者だけの主題ではなくなりました。心理学者たちが幸福を測り、実験しはじめたのです。そのなかでも、とりわけ興味深い洞察を一つ紹介したいと思います。ノーベル経済学賞を受けた心理学者ダニエル・カーネマンの「二つの自己」の物語です。

カーネマンは、わたしたちのなかに二人の異なる自己がいると言います。

一つは経験する自己(experiencing self)です。この自己は、今この瞬間を生きるわたし、一瞬一瞬の楽しみと苦痛を直接感じるわたしです。わたしたちが実際に生きる時間の大部分は、この自己のものです。

もう一つは記憶する自己(remembering self)です。この自己は、過ぎ去ったことを振り返り、物語にまとめ、評価するわたしです。「あのときの旅はどうだったか」と思い出すときに働くのが、まさにこの自己ですね。

問題は、この二つの自己がしばしば意見を異にすることです。カーネマンがよく挙げた例があります。

ある人がすばらしい音楽を聴いていて、最後の瞬間にひどい騒音で台なしになったとしましょう。経験する自己の立場からすれば、それまで味わった長い楽しみはたしかに存在しました。しかし記憶する自己は「あの経験はひどかった」と結論づけがちです。最後の印象が全体の評価を圧倒してしまうのです。

わたしたちの人生の多くの決定は、実は経験する自己ではなく記憶する自己の手にゆだねられています。次の休暇を計画するとき、わたしたちは前の休暇の「記憶」を思い出して選ぶからです。ところがその記憶は、わたしたちが実際に過ごした時間を忠実に反映していないかもしれません。

これに関連するもう一つの発見が、いわゆる「ピーク・エンド効果」です。

わたしたちはある経験を評価するとき、それがどれほど長く続いたかよりも、もっとも強烈だった瞬間(ピーク)と最後の瞬間(エンド)を中心に記憶する傾向があります。長さは思ったよりも軽く扱われるのです。これを「持続時間の無視」と呼ぶこともあります。

ですから、短くても終わりが良かった経験が、長くても終わりが残念だった経験より良く記憶されることもあります。わたしたちの記憶が、平均を取るより印象的な場面を選んで保存するからです。

この洞察は、わたしたちの人生に重い問いを投げかけます。わたしたちは幸福を「経験」するために生きているのでしょうか、それとも良い「記憶」を積み上げるために生きているのでしょうか。

休暇に出かけるとき、わたしたちはときに写真を残すことに夢中になるあまり、肝心のその瞬間を十分に味わえないことがあります。記憶する自己のために経験する自己を犠牲にしているわけです。

カーネマンは、この二つの自己のあいだの緊張が、幸福を理解するうえで核心的だと見ていました。どちらか一方だけのための人生は、どこか傾かざるをえません。良い人生とは、おそらくこの二つの自己をともに気づかう繊細な綱渡りでしょう。

現代心理学のもう一つの流れとして、ポジティブ心理学(positive psychology)に触れないわけにはいきません。この分野は、心理学がこれまで抑うつや不安といった欠落ばかりに注目してきた、という反省から出発しました。

病を治すことだけでなく、何が人生を生きるに値するものにするのかを問おう、というのです。すなわち、強みや意味、没頭や人間関係といった肯定的な要素に注目しよう、と。幸福を単に苦痛の不在ではなく、それ自体として積極的に育てうる何かとして見ようとする試みです。

ただし、この分野の研究結果はまだ検証が進んでいる部分も多いので、断定的な処方として受け取るよりも、一つの有望な探究として理解するほうが慎重でしょう。

没入 — 時間が消える瞬間

現代の幸福心理学において、もう一つ欠かせない概念があります。まさに没入(flow)です。

この概念を提示したのは、心理学者ミハイ・チクセントミハイです。彼は画家、運動選手、音楽家、外科医のように、自分の仕事に深く入り込む人々を長く観察しました。

そして、彼らが共通して描写する一つの状態を発見しました。仕事に完全に没頭するあまり、時間の感覚が消え、自意識さえ薄れ、行為と自分自身が一つに溶け合うような経験でした。ある画家は、絵に入り込むと空腹も疲れも忘れると語りました。

興味深いのは、この没入が単なる休息や娯楽とはかなり異なるということです。没入はむしろ、ほどよい挑戦とそれに見合う能力が出会うときに起こります。課題が易しすぎればわたしたちは退屈し、難しすぎれば不安になります。その間の絶妙な地点、つまり少し手ごわいがやり遂げられる領域で、没入が花開きます。

この洞察は、幸福についてのわたしたちの常識を少しくつがえします。わたしたちはよく、楽に休む瞬間がもっとも幸福だろうと考えます。

しかし多くの人の経験を集めてみると、むしろ何かに深く没頭して励む瞬間に、より大きな充足を感じることが多かったのです。努力のない快楽より、意味ある努力のなかの没入のほうが深い満足を与えるのです。

ここでもわたしたちはアリストテレスのこだまを聞きます。彼の言う徳にしたがう活動とは、もしかすると自分の能力を卓越して発揮する没入の瞬間と遠くないかもしれません。古代の哲学と現代の心理学が、もう一度手を取り合うわけです。幸福が静かに享受する状態ではなく、積極的に発揮する活動だという洞察が、二つの時代を貫いて続いています。

ストア学派のもう一つの道

ここまでわたしたちは、快楽主義とエウダイモニアという二つの大きな枝をたどってきました。ところが古代ギリシアとローマには、もう一つ重要な流れがありました。まさにストア学派です。

ストアの哲学者たちは、幸福の秘訣を少し異なるところに求めました。彼らは世界の多くの事柄がわたしたちの制御の外にあるという事実に注目しました。天気、他人の評価、財産の浮き沈み、さらにはわたしたちの健康さえも、完全には思いどおりになりません。

では、わたしたちが本当に治めることができるものは何でしょうか。ストア学派は、それがただわたしたち自身の判断と態度だと見ました。外の世界は思うままにできなくても、それをどう受けとめるかはわたしたちにかかっている、というのです。

この観点から、平静とは、制御できないものにすがるのをやめ、制御できるものに集中することから来ます。外部の出来事そのものがわたしたちを苦しめるのではなく、その出来事を見るわたしたちの解釈が苦しみをつくる、というのです。

この考えは、今日のいくつかの心理相談の技法にも影響を与えたと評価されます。起こったこと自体より、そのことに対するわたしたちの考えを見つめる接近は、ストア哲学の古い洞察と似ています。

エピクロスが欲望を減らせと言ったなら、ストア学派はわたしたちの心の反応を治めよ、と勧めたわけです。どちらも外部の条件に振り回されない内面の平静へ向かう点で似ています。こう見ると、古代の哲学は、それぞれ異なる道を通って、結局は似た峰、すなわち揺るがない心の平和へと登っていたのかもしれません。

お金と幸福 — 終わらない論争

幸福を語るとき、欠かせない現実的な問いがあります。お金はわたしたちをどれほど幸福にするのでしょうか。

この主題でよく登場する名前が、経済学者リチャード・イースタリンです。彼は一九七〇年代に、いわゆる「イースタリンのパラドックス」を提起しました。

核心はこうです。一つの社会のなかでは、裕福な人のほうが貧しい人よりおおむね幸福だと答えるが、国全体が裕福になったからといって、国民の平均的な幸福がそれに比例して上がり続けるわけではない、という観察でした。

ある時点の比較と、時間を通じた変化とが、たがいに異なる絵を見せる、というのです。同じ社会のなかで隣人と見比べる相対的な位置が、絶対的な豊かさと同じくらい幸福に影響しうる、という暗示でもあります。

このパラドックスは、その後の数十年にわたって活発な論争の的となりました。より多くの資料と精緻な方法で武装した後続の研究のうち、一部は、所得が高いほど平均的な生活満足度もともに高くなる傾向があり、その関係はそう簡単には消えない、と報告しました。

一方、ほかの研究は、所得が一定の水準を超えると幸福の増え方が目に見えてゆるやかになる点、すなわち限界効用が減る点を強調しました。何も持たなかった人に与えられた金額の重みと、すでに大きな富を持つ人に加えられた同じ金額の重みは同じではない、というのです。

最近では、日々の感情的な幸福と、人生に対する全般的な評価とを分けて見ると、お金の効果が異なって現れうる、という、いっそう精緻な議論も続いています。同じお金でも「今日一日どれだけ楽しかったか」と「自分の人生全体にどれだけ満足しているか」に与える影響が、たがいに異なりうるのです。

ここで一つはっきりさせておくべきことがあります。この主題は、まだ学界できれいに整理された結論には至っていない、という点です。

ですから「お金は一定の金額までしか幸福を増やさない」とか「お金は結局、幸福とは無関係だ」といった断定は、いずれも慎むべきです。資料や方法、どの幸福を測るかによって、結果が変わるからです。

メディアではしばしば「幸福の限界金額はいくら」という式の、きれいな数字を見ますが、そうした断定的な結論は後続の研究でふたたび挑戦を受けがちです。わたしたちはこの主題を、答えの定まった問題としてではなく、いまも活発に議論されている開かれた問いとして扱うほうが正直です。

ただし、複数の研究が比較的一貫して指し示す、慎重な一般化はあります。

第一に、基本的な生活を脅かす貧困は、明らかに幸福を大きく損ないます。お金が欠乏の苦しみを和らげる区間では、その効果は大きいのです。食事や住まい、健康のための最小限の安定が揺らぐとき、お金は単なる数字ではなく、平穏の土台となります。

第二に、その区間を超えると、お金が幸福に及ぼす影響はしだいに小さくなる傾向があります。最初の一段階の所得の増加がもたらす喜びと、すでに豊かな状態での同じ増加がもたらす喜びは、大きく異なります。

第三に、同じお金でも、どこに使うかが大切なようです。多くの研究が、物を買うよりも経験に使うとき、あるいは自分よりも他人のために使うとき、より大きな満足を感じる、ということを示唆しています。物は容易に慣れてしまいますが、経験は記憶のなかに長く生き残るからかもしれません。

要するに、お金は幸福の頼もしい土台にはなりえますが、幸福そのものを保証はしないようです。

エピクロスがパンと水でも十分だと語ったあの洞察が、現代の資料のなかにもかすかにこだましているわけです。欠乏をまぬがれるところまでは、お金は大きな力を発揮しますが、その先では、何のためにどう使うかが金額より大切になるようです。

幸福な人生と意味ある人生は同じか

一つ微妙だが重要な区別に触れておきたいと思います。「幸福な人生」と「意味ある人生」は本当に同じものでしょうか。

直観的には同じに見えます。しかし、何人かの研究者は、この二つが必ずしも一致しないと言います。

たとえば、幼い子どもを育てる親を考えてみましょう。毎日の育児は睡眠不足と果てしない労働の連続なので、瞬間瞬間の楽しみだけで数えれば、点数は低いかもしれません。

しかし多くの親は、その時間を自分の人生でもっとも意味ある時期に挙げます。楽しみのものさしでは骨が折れたが、意味のものさしではこのうえなく満ち足りていたのですね。

このように、楽しみの頻度と意味の深さは、いつも並んで進むわけではありません。ある人生は楽しいが空虚でありえ、ある人生は骨が折れるが満ちあふれていることがあります。

研究は、意味の感覚が、しばしば他人のための献身、長期的な目標、そして自分より大きな何かに属しているという感覚と結びつく、という点を示唆します。楽しみがおもに「受ける」ことに触れているなら、意味はしばしば「与える」ことに触れているわけです。

この区別は、わたしたちに選択肢を投げかけます。あなたはより楽しい人生を望みますか、それともより意味ある人生を望みますか。幸いにも、この二つは両立不可能ではありません。ただ、二つが異なりうると知るだけでも、わたしたちは自分の人生を少し立体的に見ることができます。

東西が出会う場所

幸福についての洞察は、西洋の哲学だけにあるのではありません。東洋の長い知恵の伝統もまた、似た問いと格闘してきました。

道家の思想は、無理に励まない無為(無為)と自然さのなかに平静を見いだせ、と教えてくれます。流れに逆らわず、自然の道に身をまかせるとき、心が静まるというのですね。

これは、エピクロスの節制やストア学派の受容とも、妙に通じるところがあります。何かを果てしなく握ろうとする手を開くところに平静が来る、という洞察が、東西を問わず繰り返しあらわれるわけです。

仏教の伝統は、苦しみの根を執着と渇愛に求め、その執着を手放すところに平静が来ると教えます。

果てしなくより多くを渇望する心、すなわち先に見た快楽のトレッドミルを止めることとも似た洞察です。渇望そのものを治めないかぎり、いくら多く得ても心はなかなか満たされない、というのですね。

もちろん、こうした伝統を現代の幸福概念とただちに同一視するのは慎重を要することです。それぞれ深い思想的な文脈をもっているからです。

ただ、古今東西の知恵が一様に「果てしない欲望を治めるところに平静がある」という方向を指し示す点は興味深いものです。人間という存在が、どこでも似た落とし穴と似た出口に向き合ってきたのかもしれません。

ひと休み — 考えを整理するクイズ

ここまでの内容を軽く点検してみましょう。下の質問に、まず自分で答えてみてから、解説を読んでみてください。

[質問1]
エピクロスが語った真の快楽にもっとも近いものは?
  (ア) 毎晩、豪華な晩餐を楽しむこと
  (イ) 身体の苦痛と心の不安がない穏やかな状態
  (ウ) できるだけ多くの感覚的刺激を追い求めること

[質問2]
アリストテレスのエウダイモニアをもっともよく説明したものは?
  (ア) 瞬間ごとに感じる楽しい気分の総和
  (イ) 徳にしたがって生きる人生全体の繁栄
  (ウ) 苦痛を完全に取り除いた無感覚の状態

[質問3]
「快楽のトレッドミル」が意味するものは?
  (ア) 運動を多くするほど、より幸福になる
  (イ) 良いことに順応し、満足がもとの水準に戻る
  (ウ) 快楽は無限に積み重なり、しだいに大きくなる

[質問4]
カーネマンの「記憶する自己」が評価にとくに強く反映するものは?
  (ア) 経験の全体の持続時間
  (イ) 経験のピークと最後の瞬間
  (ウ) 経験をともにした人の数

解説です。質問1の答えは(イ)です。エピクロスの快楽はアポニアとアタラクシア、すなわち苦痛と不安の不在であって、ぜいたくではありませんでした。質問2の答えは(イ)です。エウダイモニアは一瞬の気分ではなく、徳にしたがう人生全体の繁栄を指します。質問3の答えは(イ)です。快楽順応のために、わたしたちは良い変化にもすぐ慣れ、基準線へと戻ります。質問4の答えは(イ)です。記憶する自己はピークと終わりを中心に経験を評価し、持続時間は比較的あまり反映されません。

古い処方箋 — 人間関係

幸福を語るほとんどすべての伝統が、一つの声で指し示すものがあります。それは人と人とのあいだの関係です。

エピクロスは友情を平静な人生のもっとも貴い材料に挙げました。

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』のかなりの部分を友愛(philia)、すなわち友情に割き、それを良い人生の核心的な要素として扱いました。良い友とともに徳を実践する人生こそ、もっとも人間らしい繁栄だというのですね。

現代のいくつかの長期研究もまた、似た方向を示唆します。温かく信頼できる人間関係が、人生の満足と比較的一貫して結びつくという観察が、繰り返し報告されてきました。

もちろんこうした研究も、相関と因果を分けるのに慎重でなければならず、断定的に受け取るより、一つの強い傾向として理解するほうがよいでしょう。幸福な人が関係をうまく結ぶのか、良い関係が人を幸福にするのかは、刀で断つように分けがたいからです。

それでも、興味深い点は明らかです。より多くのお金、より大きな達成より、そばにいる人との関係が幸福により深く触れているという直観は、古代の哲学者から現代の研究者まで、繰り返しこだましているのですから。

もしかすると幸福のもっとも古い処方箋は、新しい何かではなく、そばの人を大切にすることなのかもしれません。遠くで探していた幸福が、実はもっとも近いところに、わたしたちのそばの顔のなかにあったわけです。

日常に持ち込む — 小さな実践

大それた哲学も、結局は日常に触れてこそ意味があります。ここまでの話から、わたしたちが慎重に汲み取れる小さな実践を集めてみます。あくまで一つの提案にすぎず、医学的な処方や絶対的な公式ではないことを、まずお断りしておきます。

第一に、欲望の目録を一度のぞいてみてください。エピクロスの分類を借りれば、今わたしが追っているもののうち、本当に必要なものと、ただ習慣のように渇望するものを選り分けることができます。

むなしい欲望を一つ二つ手放すだけでも、心はずっと軽くなることがあります。減らすことが、そのまま失うことではなく、ときには引き算がより大きな平穏をもたらします。

第二に、小さな儀式をつくって順応を遅らせてみてください。良いことを当然のように流さず、しばし立ち止まって味わうのです。感謝の心を育てることは、快楽のトレッドミルに歯止めをかける素朴な方法です。

第三に、経験する自己のための時間を別に設けてみてください。写真を残すことばかりに気を取られるより、ときにはただその瞬間のなかにまるごととどまってみるのです。記憶のために現在を見失わないように。

第四に、意味ある活動に自分の能力を注いでみてください。少し手ごわいがやり遂げられることに没入するとき、わたしたちはしばしば、楽な休息より深い充足に出会います。

アリストテレスの言う徳にしたがう活動も、これと遠くありません。自分のなかの能力を十分に広げて見せる瞬間に、わたしたちはもっとも生きていると感じるものです。

第五に、お金を使うことがあれば、物より経験に、そしてときには自分より他人に使ってみてください。多くの研究が、そちらの満足のほうが長く続くと、慎重に示唆します。

これらの小さな実践に共通する精神は、結局一つです。より多く持とうと励むより、すでに持っているものをより深く味わい、意味あるように使おう、ということですね。

華やかな決心より、こうした小さな方向転換のほうがむしろ長続きします。幸福は巨大な飛躍一度ではなく、毎日のささいな選択が積み重なってつくられる風景に近いのですから。

均衡へ向けて — おわりに

長い道のりをともに歩いてきました。古代ギリシアの庭園から出発し、アリストテレスの講義室を通り、カーネマンの実験室や経済学者たちの資料までを見てまわりました。

では、わたしたちは結局どんな答えにたどりついたのでしょうか。

正直に言えば、きれいな正解はありません。そして、おそらくそれこそが、この問いのもっとも誠実な答えなのかもしれません。快楽か意味かは、どちらか一つを選ばなければならない試験問題ではなく、人生のなかで絶えず調律しつづける、均衡の問題だからです。

エピクロスは、わたしたちに欲望を治め、素朴なものから喜びを見いだすよう教えてくれます。アリストテレスは、一瞬の気分を超えて、徳と意味へと人生全体を形づくるよう勧めます。

快楽のトレッドミルは、より多くを追うことのむなしさを警告し、カーネマンは、経験するわたしと記憶するわたしの両方を大切にするよう気づかせます。お金に関する研究は、貧困の苦しみは和らげつつ、お金そのものを目的にはするな、と慎重にささやきます。

それぞれ異なる時代、異なる言葉で語っていますが、これらの声は不思議とたがいを補い合います。どれか一つが別の一つを完全に置きかえられないという点こそ、幸福がそれだけ幾重にも成り立っていることを示しています。

これらすべての声を貫く一つの手ざわりは、おそらく「均衡」という古い美徳でしょう。楽しい瞬間を十分に味わいつつ、そこに縛られないこと。意味ある仕事に打ち込みつつ、日々の小さな喜びを忘れないこと。

最初の経験機械に戻ってみましょう。わたしたちがあの機械を断った理由は、幸福がただ感じの問題ではなく、わたしたちが実際に生きぬく人生の問題だったからです。

もしかすると幸福とは、たどりつくべき目的地ではなく、よく歩くその歩き方そのものなのかもしれません。だとすれば、わたしたちに必要なのは、より速く走る方法ではなく、いま歩いているこの道を、もう少し味わいながら歩く方法でしょう。

考えるための材料

  • もしノージックの経験機械が実際に存在するなら、あなたは接続しますか。その選択のなかで、あなたが幸福について本当に信じているものは何でしょうか。
  • この一か月を振り返るとき、経験する自己と記憶する自己のどちらがより満足していたでしょうか。二つの自己の評価が分かれた瞬間はありましたか。
  • エピクロスなら、あなたの今の消費の習慣を見て、何を減らすよう勧めるでしょうか。そしてその節制は、本当にあなたをより穏やかにするでしょうか。
  • アリストテレスの言う「徳にしたがう活動」のうち、あなたが最近もっとも誠実に実践したものは何でしたか。

参考資料