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- Youngju Kim
- @fjvbn20031
はじめに
世の中には、記憶されない日々があります。
あまりにありふれていて、あまりに毎日と同じで、一週間も経てば何があったのか思い出せない、そんな日々。わたしたちの人生のほとんどは、じつはそういう日々で満たされています。
わたしたちは特別な日を待ちながら生きています。誕生日、旅行、合格の知らせ、誰かと初めて出会った日。
けれど、そうした日々のあいだを埋めているのは、何ひとつ起こらない数えきれないほどの普通の日々なのです。
その普通の日々は、静かで目立ちません。写真に残すこともなく、誰かに話すこともありません。ただ流れていくだけです。
けれど、もしかすると、一人の人生を本当に支えているのは、そういう日々なのかもしれません。
これは、そんな一日についての物語です。何ひとつ起こらなかったように見える、ある火曜日についての。
朝六時四十分
アラームが鳴る三分前に、ユンソは目を覚ましました。
彼女はいつもそうでした。体がアラームより先に目覚めるのです。まるで眠っているあいだも、どこかで時計が回りつづけているかのように。
天井の見慣れた染み、カーテンの隙間から差しこむ鈍い光、隣の部屋から聞こえるボイラーの音。すべてが昨日と同じでした。
ユンソはしばらくそのまま横たわっていました。起きなければならないと分かっていながら、体を起こす直前のあの短いためらいを、彼女は好きでした。
一日のうちで、誰のものでもない唯一の時間。まだ誰にも借りのない時間。
彼女は二十九歳でした。小さな会社で経理を担当し、ひとりで暮らし、特別に不幸でも幸福でもありませんでした。
どう過ごしているかと人に聞かれると、彼女はいつも同じように答えました。まあ、ぼちぼちです、別に何もないですよ、と。それは嘘ではありませんでした。本当に、何もなかったのです。
彼女の人生は、静かな湖のようでした。波紋もなく、深さもわからない。
ときどきユンソは思いました。こうして何事もなく流れていく日々がすべて集まったら、けっきょく何が残るのだろう、と。誰かが彼女の人生を本にしたら、その本にはどんな物語が書かれるのだろう、と。
たぶん何も書かれないだろう。彼女は昔からそう信じてきました。
けれど、そう信じているからといって悲しいわけではありませんでした。ただ事実を受け入れていただけです。誰もが主人公でいられるわけではありません。誰かは背景にならなければならず、ユンソは自分がそういう人間だと思っていました。舞台の裏で静かに照明をつけたり消したりする、名もなき人。
アラームが鳴りました。彼女は手を伸ばして止めました。そうして一日が始まりました。
台所は冷たかったです。ユンソは電気ケトルに水をかけ、昨日買っておいた食パンの袋を開けました。
食パンは端から二枚目でした。彼女は最後の一枚を残しておき、二枚目を取り出してトースターに入れました。
最後の一枚を残すのは、古い習慣でした。何かが完全に終わってしまうことを、彼女はいつも少しだけ恐れていたのです。
牛乳の最後のひと口、歯みがき粉の最後のひと絞り、ノートの最後の一枚。彼女はいつもその終わりを少しだけ残しておきました。終わりが見えると、心が冷たくなったから。
窓の向こうで、通りの向かいのパン屋のシャッターが半分ほど上がるのが見えました。早朝のパン屋の主人は、いつもユンソより早く一日を始めました。
一度も言葉を交わしたことのない人ですが、そのシャッターが上がる音を聞くと、ユンソは不思議と安心しました。世の中に自分のほかにも目覚めている人がいるという事実が。
トーストが跳ね上がりました。少し焦げていました。彼女はそのまま食べました。
焦げたところは少し苦かったですが、それも悪くありませんでした。完璧でない朝。それが彼女の一日の開け方でした。
彼女は温かいお茶をひと口飲んで、しばらく窓辺に立っていました。通りにはまだ人は多くありませんでした。街灯がひとつ、またひとつと消えていき、街がゆっくりと目を覚ましていました。ユンソはその風景が好きでした。世界がまだ騒がしくなる前の、ひとときの静けさを。
八時十二分、地下鉄
地下鉄は満員でした。
ユンソは手すりをつかみ、揺れる人々のあいだに挟まれて立ちました。誰も互いを見ていませんでした。
みんな小さな画面をのぞきこむか、目を閉じるか、どこか遠くを見つめていました。数百人の人が一つの車両のなかにいましたが、その中は不思議なほど静かでした。
ユンソはときどき、この静けさを不思議に思いました。こんなに近くに寄り添っているのに、みんなが互いに見えない壁をめぐらせていました。
肩が触れ、息づかいが聞こえるほど近いのに、彼らはそれぞれの島でした。もしかすると、都市に住むということは、何百万もの人々のなかでひとりになる術を学ぶことなのかもしれません。
それでもユンソは、この時間を嫌いではありませんでした。揺れる車窓の向こうを流れていく風景、聞き慣れた車内放送、毎日同じ場所で降りる見慣れた顔たち。そのすべてが、彼女にとっては一種のリズムでした。誰にも聞こえない、彼女だけの静かな拍子。
毎日同じ車両、同じ手すり、同じ広告。その変わらなさが彼女を支えていました。世界があまりにも速く変わるとき、変わらないものがひとつあるというのは、小さな慰めでした。
ドアが閉まる直前、一人の老人があわてて駆けこんできました。手には鉢が握られていました。小さなトマトの苗でした。
老人は荒い息をつきながら、鉢を胸にしっかりと抱きました。人が押されるたびに、老人は体をひねって鉢を守りました。まるでそれが世界でいちばん壊れやすいものであるかのように。
ユンソはその姿をしばらく見つめていました。この混んだ通勤の道で、トマトの苗を抱えていく人だなんて。
どこへ行くのでしょう。誰にあげるのでしょうか、それとも自分のベランダに植えるのでしょうか。老人の指の関節は太く、鉢を支えた指は土でうっすらと染まっていました。
小さな苗はか弱いものでした。茎はまだ細く、葉は爪ほどの大きさでした。
あんなに小さなものが育って、いつか赤い実をつけるのだと思うと、ユンソはうまく言葉にできないほど胸がじんとしました。大きなものはみな、かつてあんなに小さかった。固いものはみな、かつてあんなにか弱かった。
次の駅で老人は降りました。降りる直前、老人はユンソと目が合いました。
そしてほんの一瞬、きまり悪そうに笑いました。まるで他愛もない秘密を見られた人のように。ユンソも思わずつられて笑いました。
ドアが閉まり、老人は消えました。けれど、その小さな緑の苗は、ユンソの頭のなかに長いあいだ残っていました。
会社へ向かうあいだずっと、彼女はその老人が無事に家に着いて苗を植える姿を思い描きました。太い指が土をならし、小さな茎が新しい場所でまっすぐに立つ姿を。
不思議なことでした。一度も言葉を交わしていない人なのに、その老人の一日が気になりました。もし彼が誰かのためにその苗を育てているのなら、その誰かはきっと愛されている人なのだろう、とユンソは思いました。
十時三十分、オフィス
オフィスはいつものように、蛍光灯の下に沈んでいました。
ユンソは経理の仕事をしていました。数字を合わせ、領収書を整理し、報告書を作る仕事。
誰も彼女の仕事に目を留めませんでした。仕事に不具合があったときだけ、人々は彼女を探しました。うまく回っているとき、彼女の仕事は見えませんでした。よくできた橋のように、よく書かれた文章の分かち書きのように。
ユンソはそれが不満ではありませんでした。見えない仕事には、見えない誇りがありました。
彼女が合わせた数字のおかげで会社が回り、人々が給料をもらい、どこかで誰かの家族が夕食をとりました。誰も気づかなくても、彼女は知っていました。それで十分なときもありました。
数字は正直でした。嘘をつかず、言い訳もしませんでした。合えば合い、まちがえばまちがった。ユンソはその正直さが好きでした。人の心とちがって、数字にはいつも答えがあったから。
隣の席のミノがため息をつきました。もう三度目でした。ユンソはモニターから目を離さないまま尋ねました。
「何かあったんですか」
ミノがはっとしました。自分のため息を聞いてくれる人がいるとは思っていなかったようでした。
「あ、いえ、なんでもないです。ただ……母が入院していて。大したことではないんです」
大したことではない、という言葉。ユンソはその言葉を知っていました。いちばん重いものを、いちばん軽いふりをして下ろすときに使う言葉。
彼女自身も毎日使う言葉だったのです。別に何もないです、ぼちぼちです。その言葉のうしろに、どれほど多くのものが隠れているか、彼女はよく知っていました。
彼女はしばらくためらってから、引き出しからビタミン飲料を一本取り出しました。昼に飲もうと買っておいたものでした。
「これでもどうぞ」
ミノはその小さな瓶をしばらく見つめました。その短い沈黙のあいだ、彼の目もとが一瞬赤らんだのを、ユンソは見なかったふりをしました。
母が入院している、という言葉。ユンソも数年前、同じ言葉を誰かに口にしたことがありました。あのとき誰かが彼女に温かい飲み物を一本手渡してくれていたら、どうだっただろう。彼女はいまになって、その思いを誰かに返しているのでした。
そして頭を下げました。
「ありがとうございます」
それだけでした。大げさな慰めも、深い会話もありませんでした。
彼女は彼に、がんばって、とは言いませんでした。きっと大丈夫、とも言いませんでした。そういう言葉が、ときにどれほど空虚かを知っていたからです。彼女はただ、小さな瓶を一本手渡しただけでした。
けれどその日の午後、ミノのため息はもう聞こえませんでした。ユンソはそれに気づいていました。
ときには言葉よりも、小さなものひとつのほうが遠くまで届くのだと、彼女はその日もう一度学びました。
午後のある瞬間、ミノが席を立って給水機のほうへ向かう途中、ふと立ち止まりました。そして小さく言いました。さっきはありがとうございました。ユンソは大丈夫だというように、ただうなずきました。それ以上の言葉は必要ありませんでした。その小さなうなずきのなかに、二人だけが知る何かが込められていました。
昼、ひとりで
ユンソは会社の近くの公園で昼食をとりました。
コンビニのキンパと温かいコーヒー。ベンチは冷たかったですが、日差しはよかったです。
雲がいっとき切れて、春の光が彼女の肩に降りそそぎました。ユンソは目を閉じてその温もりを感じました。
日差しは誰にでも公平に降りました。お金持ちにも貧しい人にも、幸せな人にも寂しい人にも。その事実が彼女を少し慰めました。
世界がどれほど不公平でも、少なくとも春の日差しだけは、みんなに同じように届きました。ユンソはその小さな公平さに、長いあいだ寄りかかって生きてきました。
近くで子どもが二人、鳩を追いかけていました。鳩は逃げるふりをしては、また戻ってくるのを繰り返し、子どもたちはそのたびにけらけらと笑いました。
一人の子が転びました。泣くか泣くまいか口をへの字にしていた子は、もう一人が手を差し出すと、すぐにまた笑って立ち上がりました。
ユンソは思いました。大人になるとは、もしかすると、転んだときに手を差し出してくれる人を見つけにくくなることなのかもしれない、と。
あるいは、手を差し出してくれる人がいても、その手を取るのをためらうようになることなのかもしれない、と。
その考えは少し寂しかったけれど、同時にどこか優しくもありました。手を差し出すことも、その手を取ることも、けっきょくは勇気のいることなのだと、彼女は知っていました。
子どものころ、ユンソは転ぶと大きな声で泣きました。すると誰かが駆けつけて起こしてくれました。
大人になったいま、彼女は転んでも声を立てませんでした。ひとりで静かに立ち上がり、土を払い、何事もなかったふりをして歩きました。それが大人のやり方だと学んだからです。けれど、ときにそのやり方は寂しいものでした。
彼女は最後のキンパの一切れを鳩に投げました。鳩たちが群がってきました。
何でもないことでしたが、その瞬間、ユンソは自分が何かの一部になったように感じました。この公園の、この街の、この春の日の。小さなキンパの一切れで、彼女は世界とつながりました。
昼休みが終わりに近づいていました。ユンソは空になった弁当箱をかばんに入れ、もうしばらく日差しのなかに座っていました。職場に戻れば、また数字が彼女を待っているでしょう。けれど、その短い温もりの記憶が、午後を持ちこたえる小さな燃料になることを、彼女は知っていました。
午後三時、小さなミス
午後、ユンソはミスをしました。
取引先に送る金額を、一桁まちがえて入力してしまったのです。幸い決裁の前に気づきましたが、いっとき背筋がひやりとしました。
彼女は息を整えました。誰でもミスはする、気づいたのだから大丈夫だ、と自分をなだめました。
以前のユンソなら、一日じゅうそのミスを噛みしめていたでしょう。自分を責め、無能だと思い、家に帰る道までその重みを背負っていたでしょう。
夜、眠りにつく前にもその場面が浮かんで、布団を蹴っていたでしょう。小さなミスひとつが、彼女の一日ぜんぶを、ときには一週間ぜんぶを、暗く染めてしまうのでした。
けれど今日は違いました。朝のトマトの苗を抱えていた老人のことが思い浮かんだからでしょうか。それとも、ミノに飲み物を手渡したときの、あの小さな温もりのおかげでしょうか。
ユンソはミスを直し、もう一度確認し、そしてただ、流しました。
彼女はしばらく窓の外を見ました。午後の光が、オフィスの向かいの建物のガラスにくだけていました。その光を見ながら、ユンソはゆっくりと息を吐きました。
完璧でなくてもいい日があります。ただ崩れずに持ちこたえるだけで十分な日が。
彼女は自分を許す方法を、少しずつ学んでいました。それは帳簿を合わせることよりも、ずっと難しい仕事でした。
帳簿の誤差は、見つければ直せました。けれど心の誤差は、見つけても簡単には直りませんでした。それでもユンソは今日、初めてその誤差をそのまま抱えていってみることにしました。
夕方七時、帰り道
帰りの地下鉄は、朝よりもさらに疲れていました。
人々の顔には、一日ぶんの疲れが降りていました。ユンソもそのうちの一人でした。
彼女は窓に映った自分の顔を見ました。どこか見知らぬ顔でした。鏡のなかの自分ではなく、ガラスに反射した、少しぼやけて、少し正直な顔。
あの顔は今日一日をどう生きたのだろう、とユンソは思いました。誰かに小さな親切を差し出し、小さなミスをし、小さな恐れを越えた。
それだけでした。それだけですが、もしかするとそれで十分な一日だったのかもしれません。
家の前のスーパーに寄りました。食パンが切れていたから。そして彼女は、しばらく野菜のコーナーの前で立ち止まりました。
トマトの苗が小さな鉢に入って売られていました。朝のあの老人が思い浮かびました。
ユンソはためらいました。植物を育てたことがありませんでした。いつも枯らしてしまうのではないか、責任を負えないのではないかと怖くて、一度も買ったことがなかったのです。
生きているものを世話するというのは、怖いことでした。それが死んだら、それは彼女のせいになるのだから。
けれど今日は、その小さな緑が、しきりに心に引っかかりました。彼女は苗をひとつ手に取りました。
手のひらにのせた鉢は軽かったです。けれどその軽い重さのなかに、何かの約束のようなものが込められているように感じました。
値段は二千ウォンでした。たった二千ウォンで買える小さな責任。小さな世話。小さな明日。
彼女はそれを買い物かごに入れました。手は少し震えましたが、心は不思議と温かかったです。
長いあいだ、彼女は何かを引き受けることを避けてきました。鉢ひとつ、約束ひとつ、心ひとつ。失うのが怖くて、失敗するのが怖くて、いつも一歩うしろに下がっていました。けれど今日は、一歩を踏み出しました。小さくて緑色の、たった二千ウォンの一歩を。
レジの店員は、年配のおばさんでした。苗をゆっくりと袋に入れながら、おばさんがひと言かけてくれました。
「これは日さえよく当ててやれば、よく育ちますよ。水はやりすぎないようにね」
ユンソは少し驚きました。店で誰かが彼女にそんな言葉をかけてくれたのは、初めてでした。
「ありがとうございます。植物は初めてなもので」
「最初はみんなそうですよ。枯らしたり、生かしたり。そうしているうちに、だんだん上手になるんです」
おばさんが笑いました。ユンソも笑いました。何でもない会話でしたが、その短いひと言ふた言が、不思議と長く心に残りました。枯らしたり、生かしたり。そうしているうちに上手になる、と。
夜九時
家に戻ったユンソは、苗を窓辺に置きました。
パン屋のシャッターが見えるあの窓辺に。彼女は小さなコップに水を汲んできて、土を湿らせました。
土のにおいがしました。雨上がりの地面のような、古いけれど生きているにおい。
そのにおいを嗅ぐと、ふと古い記憶がよみがえりました。幼いころ、母方の祖母の小さな畑。ユンソはその土のにおいが好きでした。
夏になると、祖母はユンソの手を引いて畑へ連れていきました。赤く熟したトマトをもいで、服でさっと拭き、その場でかじらせてくれました。日に温められたトマトは、温かくて甘かったです。その味を、ユンソは長いあいだ忘れていました。
祖母はいつも言っていました。植物は嘘をつかない、と。手をかけた分だけ育ち、忘れた分だけ枯れる、と。その言葉を忘れて暮らしてきたのに、土のにおいひとつでまた思い出しました。
ユンソはその前にしばらくしゃがみこんでいました。
「よろしくね」
彼女は苗に話しかけました。声が少しぎこちなかったです。ひとり暮らしの家で声に出して話したのは、いつ以来かわかりませんでした。植物が答えるはずもありませんでしたが、それでもよかったのです。
いまこの家には、彼女のほかにも生きているものがひとつ増えました。朝になれば、その苗に水をやらなければなりません。日のよく当たる場所に移してやらなければなりません。
彼女の一日に、小さな務めが、小さな理由がひとつできたのです。
長いあいだ、ユンソの朝には理由がありませんでした。起きなければならないから起き、行かなければならないから行きました。けれどいま、明日の朝には、誰かが彼女を待っているでしょう。水を待ち、日差しを待つ、とても小さな誰かが。
ユンソは最後に残しておいた食パンを一枚取り出して焼きました。今日は、その最後の一枚を食べてもいいような気がしました。
明日になれば新しい食パンがあるのだから。終わることが怖くない日もあるものです。
トーストはちょうどよくきつね色に焼けました。彼女は窓辺に立ち、苗を見ながら、ゆっくりとトーストを食べました。
パンひと切れの温もり、足もとの冷たい床、窓に映った自分のぼんやりとした輪郭。そのすべてが、今夜にかぎってはっきりと感じられました。まるで長いあいだぼやけていた何かに、ふたたび焦点が合ったかのように。
通りの向かいのパン屋の灯りは、もう消えていました。パン屋の主人も、どこかで一日を締めくくっているのでしょう。
一度も会ったことのないその人も、トマトの苗を抱えていた老人も、ため息を収めたミノも、鳩を追いかけていた子どもたちも、苗を袋に入れてくれたスーパーのおばさんも、みんなそれぞれのありふれた一日を生きぬいたのでしょう。
みんながそれぞれ、小さな恐れを越え、小さな親切をやりとりし、小さな終わりと小さな始まりを通りすぎてきたのでしょう。
世界はそうやって、目に見えない数えきれないほどのありふれた日々に支えられていました。
ユンソは空いた皿を手に、しばらくその場に立っていました。窓の外は暗く、部屋のなかは静かでした。けれどその静けさは寂しくありませんでした。窓辺に小さな緑が、いっしょにいてくれたから。
おわりに
何も起こりませんでした。
新聞に載るようなことも、誰かに自慢できるようなことも、日記に太字で書けるようなこともありませんでした。
ただのありふれた火曜日でした。一週間も経てば忘れられる、そんな一日。
けれどユンソは知っていました。今日という一日が、けっして空っぽではなかったことを。表向きには何も起こらなかったけれど、内側では小さなものたちが静かに動いていたことを。
けれど、もしかすると、わたしたちの人生を支えているのは、まさにそういう日々なのかもしれません。大げさな出来事ではなく、見過ごしてしまいそうな小さな瞬間。
見知らぬ人のきまり悪そうな笑顔、隣の席の同僚に手渡した一本の飲み物、スーパーのおばさんの優しいひと言、手のひらにのせた小さな苗。
ユンソはトーストを食べ終え、皿を洗い、灯りを消しました。暗闇のなかで窓辺の苗は見えませんでしたが、彼女はそれがそこにあることを知っていました。静かに、ゆっくりと、育っていることを。
彼女はふと、自分の人生についての本を、もう一度思い返しました。何も書かれないだろうと信じていた、あの本。
けれどもしかすると、その本には今日のような日々が書かれているのかもしれません。華やかではないけれど優しい、記憶されないけれど生きるに値する、そんなありふれた火曜日たちが。
明日もありふれた水曜日でしょう。それでもよかったのです。ありふれていることは、ときに、いちばん優しい奇跡のかたちなのですから。
明日の朝も、彼女はまたアラームより三分早く目を覚ますでしょう。冷たい台所で新しい食パンを焼き、窓辺の苗に水をやるでしょう。そしてまた地下鉄に乗り、数字を合わせ、誰かのため息を聞くかもしれません。
けれどそのすべてのありふれたなかに、今日のように小さな光が隠れているはずです。それに気づくことさえできれば。
ユンソは目を閉じました。そして、アラームが鳴る三分前に目を覚ます、もうひとつのありふれた朝に向かって、ゆっくりと眠りにつきました。
窓辺では小さな苗が、暗闇のなかでも光に向かって、少しずつ顔を向けていました。
作者のことば
この物語を書いているあいだ、わたしは何度も立ち止まって、自分が見過ごしてきた火曜日たちを思い返しました。
わたしたちは特別な日を待ちながら生きていますが、人生のほとんどは、記憶にすら残らないありふれた日々で満たされています。
ありふれた火曜日のユンソは英雄ではありません。世界を変えることも、偉大な決断を下すこともありません。
ただ小さな親切を差し出し、小さな恐れを越え、小さな命を家に迎え入れただけです。
ユンソのような人は、わたしたちのまわりにいつもいます。もしかすると、わたしたち自身がユンソなのかもしれません。華やかな物語もなく、黙々と一日を生きぬく人たち。その物語はめったに記録されませんが、それでも確かに存在しています。
けれど、わたしは信じています。わたしたちを人間らしくするのは、その小さな選択なのだと。
見知らぬ人に向ける微笑み、疲れた同僚に差し出す手、終わることを恐れない小さな勇気。これらが集まって、記憶されないありふれた日々さえも、生きるに値するものにしてくれるのだと。
今日があなたにとってありふれた一日なら、そのありふれた日常のなかに隠れている小さな優しさに、一度だけでも気づいてみてほしいと思います。
もしかすると、すでにあなたのそばで、トマトの苗のような小さな奇跡が、静かに育っているかもしれないのですから。