Skip to content
Published on

QuadRFとソフトウェア無線 — 「壁越しにWiFiが見える」の本当の意味

シェア
Authors

はじめに — センセーショナルな見出しの裏にある本当の問い

Jeff Geerling の記事「QuadRF can spot drones and see WiFi through my wall」が Hacker News で1位になりました。見出しだけ見ると壁を X 線のように透視する装置のようですが、実際にやっていることはもっと控えめで、だからこそ面白いのです。

QuadRF は ScaleRF(開発者 Martin McCormick)が Crowd Supply でクラウドファンディング中の ソフトウェア無線(SDR) 開発キットです。Raspberry Pi 5 の上に 4×4 MIMO SDR タイルとコヒーレントなアンテナ4本を載せ、検出した電波をカメラ映像の上にリアルタイムで描きます。Geerling は開発者に直接連絡し、このボードがより大きなプロジェクト — 地球-月-地球(EME)通信と電波天文を狙う月規模のアンテナアレイ — の一部であることを確認しました。

本稿では三つを整理します。SDR とは何か、「壁越しに WiFi が見える」が実際には何を意味するのか、そしてこの製品が趣味の電子工作とセキュリティ・プライバシーの両面でなぜ面白く、同時に少し気をつけるべきなのか。

SDR とは何か — 無線をソフトウェアへ移す

従来のトランシーバーは、特定の帯域をつかむために作られたアナログ回路の塊です。ソフトウェア無線 はその回路の大半をソフトウェアへ移します。アンテナが受けた電波をできるだけ早い段階でデジタルに変え、復調・フィルタリング・解釈をすべてコードで処理します。だから同じハードウェア1台で FM ラジオも、航空管制も、WiFi ものぞけます。

趣味の世界で SDR の扉を開いたのは安価な RTL-SDR 受信ドングルで、HackRF や LimeSDR のような送受信対応ボードへ広がりました。QuadRF が新しいのは 複数のアンテナを時間的に正確にそろえて(coherent)一緒に使う点 です。アンテナ1本では「信号がある」までですが、位置の分かった4本を使えば「その信号がどの方向から来るか」まで計算できます。これがフェーズドアレイ(位相配列)の核心です。

ハードウェアを一目で見ると次のとおりです。

  • コア:Raspberry Pi 5 ホスト+ Lattice ECP5 FPGA(分散 DSP・ビームフォーミング担当)
  • RF:Analog Devices MAX2850/MAX2851 ミキサー、FPGA と Pi 5 の間の 5.6 Gbit/s MIPI 経路
  • 帯域:4.9–6.0 GHz(C バンド)、アンテナあたり瞬時帯域幅 40 MHz、送信最大 1W
  • アンテナ:右・左円偏波(RHCP/LHCP)を交換できるコヒーレント4本
  • ソフトウェア:GPLv2 のオープンソース、GNU Radio・SDRangel・SDR# 互換、SoapySDR・ZeroMQ でデータ転送
  • 価格:基本キット $499、モバイル拡張パック $149、6枚組の Six-Pack $594(出荷は2026年9月予定)

開発者は、8個の ADC を平均して 8.5–9.5 ビットの有効分解能(ENOB)が得られると述べています — 多くの SDR より良いという主張です。数字だけで検証はできませんが、安価な部品でコヒーレントな多チャンネルを作るという設計意図は明確です。

使い方は大きく二つです。ボード内蔵のソフトウェアで RF をリアルタイムにストリーミング・可視化するか、SoapySDR・ZeroMQ でより強力なコンピュータへ信号を渡し、GNU Radio のようなツールで WiFi トラフィック解析といった重い処理を回すかです。つまり QuadRF は完成した計測器というより、オープンソースソフトウェアとともに開かれた実験プラットフォームに近いのです。

「壁越しに WiFi が見える」の本当の意味

まず落ち着きましょう。WiFi はもともと壁を通り抜けます — 家のどこでもルーターが届くのはそのためです。Hacker News であるユーザーが指摘したように、WiFi を使ったことがある人なら、それが壁を通り抜けることは誰でも知っています。QuadRF がやるのは透視ではなく 方向探知(direction finding)と可視化 です。

仕組みはこうです。同じ電波が4本のアンテナに届く時間(位相)の差を測ると、到来角(angle of arrival)が求まります。QuadRF は 4.9–6.0 GHz の帯域全体を毎秒30回スイープし、検出した信号の方向を計算して、その点をスマホやノート PC のカメラ映像の上に周波数ごとの色で重ねます。開発者はこれを「RF 拡張現実」と呼び、メディアは「RF カメラ」と呼びます。印象的だったのは、飛行中のドローンを追跡し、ドローンに載った2つの送信機まで区別してみせたことです。

限界も同じくらいはっきりしています。

  • 検出角度が狭いです。だいたいどこにいるか分かっているドローンをつかむには向きますが、空全体をスキャンするのははるかに難しい問題です。
  • 帯域が 4.9–6.0 GHz(C バンド)に限られ、2.4 GHz の WiFi や Bluetooth はまったく見えません。開発者は、C バンドが価格とサイズの最適点であり、最近の機器は 5 GHz へ移りつつあると答えています。
  • 原理そのものは新しくありません。フェーズドアレイは1960年代から、AESA レーダーは1990年代からある成熟した技術です。新しいのは原理ではなく 価格 です。

「壁の透視」という表現が広まるのはよくあるパターンです。RF の可視化は直感的に驚きがあり、だから見出しは実際より一歩先へ行きがちです。正確に言えば、QuadRF は壁を通り抜けた信号をつかんでその方向を描きます — 壁の内側の物体を画像として再構成するわけではありません。この区別を外すと、この製品が何なのかも、何を心配すべきかもぼやけてしまいます。

趣味の電子工作とセキュリティ・プライバシーでなぜ面白いのか

$499 で4タイルの MIMO フェーズドアレイというのは、これまで防衛や研究室のものだったものが個人の机に来るということです。6枚をつなぐ Six-Pack や72・240素子アレイの構想、さらに開発者が予告した月規模の「MoonRF」計画まで — QuadRF は最初からより大きなアレイの1タイルとして設計されています。趣味の電子工作が扱えるフェーズドアレイの最小単位が一つできたわけです。

セキュリティとプライバシーの観点では諸刃です。こっそり設置された無線カメラやビーコン、ドローンの操縦リンクを目に見えるようにするのは防御側に有用です。逆に、方向探知とビームフォーミングはそれ自体が監視ツールでもあります。

より根本的な含意はこうです。無線機器はその存在自体を電波として漏らし、その電波は方向と位置を帯びています。QuadRF はその事実を目に見えるオーバーレイに変えます — 「誰がどこで何を送信しているか」という、これまで専門機材の領域だった問いが、趣味の予算でも答えられる問いになる、ということです。

だからこそ Hackaday も Hacker News も輸出規制(ITAR)の話を持ち出しました。フェーズドアレイやパッシブレーダーのコードが規制に触れた前例(Kraken SDR がパッシブレーダーのコードを取り下げた件)があるからです。趣味と規制の境界が見た目より薄い製品だという点は、覚えておく価値があります。

おわりに — 淡々と見るほど面白い

QuadRF の本当のニュースは「壁の透視」ではなく、フェーズドアレイという成熟した技術が、誰でも買える価格とオープンソースソフトウェアで包まれて出てきたことです。センセーショナルな見出しを脇に置けば、RF を目に見えるようにする道具が趣味の電子工作の手に入るという事実だけで十分面白いのです。ただし、狭い検出角度、帯域の制限、規制という現実も一緒に見ておくと、誇張に振り回されずに済みます。次に見るべきは実際の出荷(2026年9月予定)と、開発者が予告した MoonRF の映像です。

参考資料