一
セイラが生まれた町の名は「シズカ」といいました。
その名のとおり、そこはいつも静かでした。風が吹いても木の葉は音もなく揺れ、小川は石のあいだを滑りながらもせせらぐことがありませんでした。人々はそれを町の誇りと思っていました。シズカでは、誰も大きな声を出しませんでした。笑うときも口の端を上げるだけ、泣くときも肩を震わせるだけ。朝の挨拶は軽い会釈で、別れは手のひらを開いて見せるだけで十分でした。
セイラはそれが当たり前だと思って育ちました。赤ん坊のころから、母はセイラが泣こうとすると、やさしく、けれど断固として口をふさぎました。口をふさぐ手はあたたかかったけれど、震えはありませんでした。その手はセイラにこう告げていました。音は危険なものだと。音を出せば誰かが聞くと。誰かが聞けば、何が起こるかわからないと。
町には古い掟がありました。掟は広場の真ん中に立つ灰色の石に刻まれていました。文字は風雨に削られて半ばかすれていましたが、人々はその内容をそらんじていました。
「音は平和を破る。沈黙は我らを守る。声を持つ者は町を去る。」
セイラはその石の前を通るたびに足どりをゆるめました。文字を指でなぞってみたかったけれど、一度もできませんでした。誰かが見ているような気がしたからです。シズカでは、いつも誰かが見ていました。
町の一日は静けさのなかを流れていきました。人々は畑を耕し、布を織り、水を汲みました。それでいて、誰ひとり鼻歌をうたいませんでした。子どもたちさえ、鬼ごっこをするときも音を立てずに走りまわりました。誰かを呼ぶときは、近づいて肩を軽くたたきました。シズカで育った者なら誰もが、自分の足音さえ殺して歩く術を身につけていました。
セイラはときどき不思議に思いました。ほかの町もこうなのだろうか。山の向こうにも人が住んでいると聞いたけれど、その人たちもこんなに静かなのだろうか。けれど、その問いを口に出すことはできませんでした。問いさえも音だったからです。
二
セイラが初めて「本物の音」を聞いたのは、十二歳の秋でした。
その日セイラは町の北の森へキノコを採りに行きました。大人たちは森の縁までしか行ってはいけないと言いました。もっと奥へ入れば道に迷うと。けれどセイラは、いちばん丸々としたキノコがいつもより奥にあることを知っていました。だから少しだけ、ほんの少しだけ奥へ入ってみることにしました。
木々が密になるにつれて、空気そのものが変わりました。そのとき、セイラは立ち止まりました。
どこからか、音が聞こえてきたのです。
それは町で聞いたことのない種類の音でした。高く、澄んでいて、途切れてはまた続き、上へのぼってはやさしく下りてくる。最初セイラはそれが何なのかわかりませんでした。胸が不思議なふうに高鳴りました。怖いというよりは、何かが内側で目を覚ます感じでした。
音をたどっていくと、枝の先に小さな鳥が一羽とまっていました。灰色と茶色の入りまじった、見栄えのしない鳥でした。それなのに、その小さな体からそんなに大きく美しい音が流れ出ていたのです。
鳥は歌っていました。
セイラはその場にしばらく立ちつくしていました。歌は止まっては、また始まりました。鳥は誰が聞いていようといまいと気にしていないようでした。怖がってもいませんでした。ただ自分の内側にあるものを外へ取り出して、放っているだけでした。
セイラはそっと一歩近づきました。落ち葉が足もとでかさりと鳴りました。町でなら飛び上がって驚いたであろうその音に、鳥は少しも驚きませんでした。それどころかセイラのほうへ首をかしげると、もう一度のどいっぱいにうたいました。まるで一緒にうたおうと誘っているようでした。
セイラは口を少し開きました。けれどすぐにまた閉じました。長年の習慣が、怖れが、唇を重く押さえつけました。セイラは鳥の歌を胸に抱いたまま、静かに引き返しました。
家へ帰る道で、セイラは初めてひとつの問いを抱きました。鳥は音を出しても去らないのに、なぜ人は去らなければならないのだろう、と。その小さな問いが、胸のなかで何度もこだましました。
三
その問いは、小さな種のようにセイラの心の奥深くへ落ちました。
セイラは誰にも鳥のことを話しませんでした。口に出した瞬間、母の手がまた口をふさぐような気がしたからです。代わりにセイラは、一人でいるたびにあの歌を思い出しました。思い出すだけで胸があたたかくなりました。
夜になると、セイラは布団のなかで口をほんの少しだけ開けました。そして息をゆっくり吐きました。音は出しませんでした。ただ、音を出したらどんな感じだろうと想像しました。鳥のように、高く澄んで、途切れてはまた続くように。
ある夜、セイラは知らず知らずのうちにごく小さな音を出しました。それは鼻歌に近い、ほとんど息のような音でした。セイラはびっくりして口を閉じました。心臓がどきどきと鳴りました。しばらく暗闇のなかで耳を澄ませました。誰も来ませんでした。何も起こりませんでした。
セイラはもう一度、音を出してみました。今度は少しだけ長く。
それでも何も起こりませんでした。
その夜、セイラは何かが自分のなかでゆっくりとほどけていくのを感じました。長いあいだきつく結ばれていた結び目が、一本ずつゆるんでいくような感じでした。
四
時が流れ、セイラは十七になりました。
そのあいだ、セイラは自分だけの秘密を育ててきました。それは歌でした。誰にも聞かせたことのない、ただ森のなかで、いちばん奥で、鳥たちだけが聞く歌でした。セイラは週に一度キノコを口実に森へ入り、そこで思うぞんぶん音を出しました。最初は自分の声がよそよそしく感じられました。かすれ、震えました。けれど時がたつにつれて、声は強くなり、やわらかくなり、遠くまで広がっていきました。
セイラは気づきました。声は使わなければ失われるのではなく、使えないようふさがれているだけなのだと。ふさがれたものをほどいてやれば、声はいつでも戻ってくるのだと。
そんなある日、セイラは森で一人の老人に出会いました。
老人は倒れた木に腰かけて、セイラの歌を聞いていました。セイラは彼を見つけてその場に凍りつきました。見つかった。これで町に知られる。自分は去らなければならない。
ところが老人は怒りませんでした。それどころか目もとに深いしわを寄せて笑いました。そしてゆっくりと、とてもゆっくりと口を開きました。
「久しぶりに……人の歌を聞くな。」
それはセイラが町の外で初めて聞いた人の声でした。低く、ざらつき、長く使わずに錆びついたような声。けれど、まぎれもなく人の声でした。
五
老人の名はドアンといいました。
ドアンは昔、シズカを追われた人でした。若いころ、彼は広場で歌を歌ったといいます。たった一度。友の結婚を祝うために。そのたった一度の歌で、彼は町を去らねばなりませんでした。
「わしはあのとき思ったよ。」ドアンはゆっくりと言いました。一文を言うたびにひと息おかなければなりませんでした。長く使わなかった声はすぐに疲れるのです。「わしが何か大きな過ちを犯したのか。歌が誰かを傷つけたのか。誰も傷ついてなどいなかった。ただ……人々が怖がっただけなんだ。」
セイラはドアンのそばに腰をおろしました。「何を怖がったのですか。」
「音が持つ力をさ。」ドアンは言いました。「声には力がある。一人が音を出すと、ほかの者も音を出したくなる。そうして音が集まれば、誰にも簡単には抑えられないものになる。町を治める者たちはそれを怖れたのだ。だから、いちばん初めから、いちばん小さな音から、すべてをふさいでしまった。」
セイラは長いあいだ沈黙の意味をかみしめました。沈黙は平和ではありませんでした。沈黙は怖れでした。みなが互いを怖れ、互いの口をふさいで生きてきたのです。
ドアンは言葉を継ぎました。「はじめは善意だったのかもしれん。昔、この町に大きな争いがあったと聞いた。人々が互いにどなり合い、いさかって、ひどいことが起きたそうだ。それで誰かが言ったのだろう。いっそみな口をつぐもうと。そうすれば争うこともあるまいと。そうやって沈黙が始まったのだ。」
「でも、それは……。」セイラは言葉尻を濁しました。
「そうだ。争いを止めようとして、心を分かち合うことまで止めてしまった。怖れをふせごうとして、愛を分かち合う声までふさいでしまったのだ。薬が強すぎれば、病より恐ろしくなるものさ。」
「でも、どうして去ってしまわなかったのですか。この森にずっと住んでこられたでしょう。もっと遠く、音を出してもいい場所へ行くこともできたはずなのに。」
ドアンはしばらく答えませんでした。それから町のほうを見やって、静かに言いました。
「誰かが待たねばならんからさ。いつかおまえのような子が来ると信じていた。歌をやめない子がな。その子が町へ戻って、閉ざされた扉を内側から開けてくれると思っていた。外からたたいても開かぬ扉があるのだ。中にいる者だけが開けられる扉がな。」
セイラはその言葉の重みを静かに感じました。もしかしたらドアンは、長い年月この森で自分を待っていたのかもしれませんでした。
六
その冬、シズカに大きな病が広がりました。
病は老人たちと子どもたちをまず襲いました。人々は沈黙のなかで苦しみました。うめき声ひとつ立てまいと唇を噛みました。医者は薬を分け与えましたが、薬だけでは足りませんでした。いちばん耐えがたかったのは病そのものではなく、誰も互いに慰めの言葉をかけられないことでした。死にゆく者のそばでも、家族はただ手を握り、肩を震わせるだけでした。
セイラはドアンを思い出しました。数日前、最後に森を訪れたとき、ドアンはひどく咳きこんでいました。セイラは彼が心配でしたが、町の病が深まるにつれて、森へ行くひまがありませんでした。
セイラの幼い弟も病にかかりました。弟は夜ごと熱に浮かされ、冷や汗を流しました。セイラは弟の手を握って夜を明かしました。弟の小さな胸が苦しそうに上下するのを見て、セイラの心は崩れていきました。何かしてやりたかったけれど、できることがありませんでした。沈黙の掟は病床でもほどけませんでした。
セイラは母の顔を見ました。母もまた口を固く閉ざしたまま、音もなく涙だけを流していました。子が病んでいるのに子守歌のひと節さえうたってやれないその沈黙が、セイラには耐えがたいほど残酷に感じられました。
そんなある深い夜、弟の息がだんだん荒くなっていきました。セイラはどうしてよいかわかりませんでした。そのとき、森で聞いた鳥の歌が、ドアンと一緒に歌った歌が思い浮かびました。
セイラはためらいました。歌えば町に知られる。自分は去らねばならない。けれど弟は今、苦しみのなかにいました。
セイラは心を決めました。
セイラは口を開きました。そしてごく小さく、弟の耳にだけ届くほど小さく歌い始めました。それは子守歌でした。森でセイラが自分でつくった、世界にひとつだけの歌でした。
驚いたことに、弟の荒い息が少しずつ落ち着いていきました。冷や汗にぬれた額がしだいに安らぎました。弟は歌を聞きながら眠りにつきました。深く穏やかな眠りでした。
七
翌朝、弟の熱は下がっていました。
セイラは弟を救ったのが歌だと決めつけはしませんでした。もしかしたら薬がそのときやっと効いたのかもしれません。もしかしたらただ運がよかっただけかもしれません。けれど、ひとつだけは確かでした。歌を歌っているあいだ、弟は一人ではありませんでした。セイラも一人ではありませんでした。怖れのなかで、二人は初めて互いに触れあったのです。
セイラは母にあの夜のことを話すことにしました。もう隠せませんでした。母の手がまた口をふさぐかもしれません。けれどセイラは、もうその手を怖れてはいませんでした。
「お母さん。」セイラは初めて母の前で声を出しました。「わたしは歌が歌えるの。」
母はその場で固まってしまいました。目が見開かれ、唇が震えました。長いあいだ、母は一言も言えませんでした。それからゆっくりと、震える手でセイラの頬を包みました。口をふさいでいたその手が、今度は頬を包んでいたのです。
「おまえのおばあさんも……。」母の声はとても小さかったけれど、たしかに音を出していました。「おまえのおばあさんも歌を歌った。わたしがおまえくらいのときに。それで去っていった。わたしは……わたしはおまえを失いたくなくて……。」
母はとうとう言葉を継げませんでした。けれどセイラにはわかりました。母の沈黙は愛だったのだと。まちがったやり方の愛だったけれど、それでも愛だったのだと。
八
うわさは静かに広まりました。
セイラが歌で弟をなだめたという話は、口から口へ、いや、手ぶりから手ぶりへと伝わりました。最初、人々は怖がりました。掟を破った子。町を危険にさらす子。なかにはセイラを遠ざける者もいました。
けれど病はあいかわらず町を去らず、人々は疲れていきました。沈黙のなかで苦しみ、沈黙のなかで大切な人を見送ることに、みなが疲れきっていました。そんなある夜、別の家で子どもがひどく苦しみました。その家の母がセイラを訪ねてきました。彼女は何も言わずにセイラの手を取り、自分の家へと導きました。
セイラはその子のそばで歌を歌いました。今度は少しだけ大きく。その家の母も一緒に聞きました。そして歌が終わったとき、彼女の頬には涙が流れていました。音のない涙ではありませんでした。彼女は初めて、声を出して泣いていたのです。
その泣き声は悲しみではありませんでした。それは長いあいだふさがれていたものが、ついにあふれ出る音でした。
その夜から、何かが変わりはじめました。翌日には別の家から、その次の日にはまた別の家から、セイラが呼ばれました。セイラは病む者のそばで歌を歌いました。歌がすべての病を治したわけではありません。けれど歌が流れる部屋では、人々はもう一人ではありませんでした。死にゆく者のそばでも、家族はいまや手を握るだけでなく、震える声で最後の別れを告げることができました。
セイラは知りました。自分が閉ざされた扉を内側から開けているのだと。ドアンが言っていた、まさにその扉を。
九
春が来たとき、シズカはもう以前のシズカではありませんでした。
病は春とともに少しずつ退いていきました。町は多くの者を見送りましたが、生き残った者たちは以前とは違う人になっていました。人々はあいかわらず慎重でした。大きな声を出すことには慣れていませんでした。けれど今では、子が泣くと、親は口をふさぐ代わりに背中をさすりました。誰かが悲しめば、そばで小さく歌ってやりました。広場では時おり、ごくたまに、鼻歌が聞こえました。
ある夕方には、町の人々が広場に集まって一緒に歌を歌いました。はじめは一人二人、やがて大勢で。つたなく、音程も合わない歌でした。けれどその歌には、長いあいだ閉じこめられていた心がこもっていました。歌いながら、ある者は笑い、ある者は泣きました。シズカでそんなに多くの音が一度に響きわたったのは、初めてのことでした。
セイラは去りませんでした。誰もセイラに去れとは言いませんでした。広場の真ん中の灰色の石はあいかわらずその場にありましたが、人々はもうその文字をそらんじていませんでした。誰かがその石の上に野の花の束をひとつ置いていきました。
ある日セイラは森へドアンを探しに行きました。町が変わったと、扉が開いたと伝えたかったのです。けれどドアンが座っていた倒れた木の上には、誰もいませんでした。木のかたわらには小さな土の盛りがひとつ盛りあがっていました。誰が作ったのかわからない、きれいに整えられた墓でした。セイラはその前に長いあいだ立ちつくしました。ドアンはとうとう町が変わるすがたを見ずに去ってしまったのでしょうか。それとも、遠くからでもあの歌声を聞いたのでしょうか。
その墓のかたわらには小さな鳥が一羽とまって歌っていました。灰色と茶色の入りまじった、見栄えのしない、けれどこのうえなく美しい音を出す鳥でした。
セイラはその鳥に向かってそっと歌いました。鳥も応えるように歌いました。森はふたつの声で満ちました。
十
その夏、セイラは町の子どもたちを森へ連れていくようになりました。
はじめは何人かの親がためらいました。けれどセイラは子どもたちに歌を教えました。鳥の歌をまねる方法、悲しいときに心をなだめる子守歌、うれしいときにうたう軽やかな調べ。子どもたちの声ははじめ小さく震えていましたが、やがて森いっぱいに広がりました。
セイラは子どもたちにドアンの話を聞かせました。昔、たった一度の歌で町を去らねばならなかった人。それでも歌をあきらめず、森で誰かを待ちつづけた人。子どもたちは目を輝かせてその話に聞き入りました。
「もう、おまえたちは去らなくていいんだよ。」セイラは言いました。「歌っていいの。思うぞんぶん、怖れずに。」
一人の子がおずおずと尋ねました。「ほんとうに。ほんとうに去らなくていいの。」
セイラは微笑んでうなずきました。そして真っ先に、いちばん大きく歌いはじめました。子どもたちが一人また一人と続きました。森はいつしか数えきれない声で満ちました。ドアンがあれほど待ちわびた、まさにその音でした。
そしてセイラは知りました。沈黙は決して平和ではないのだと。本当の平和は、怖れずに音を出せるとき、そしてその音に誰かが耳を傾けてくれるとき、はじめて訪れるのだと。
町の名はあいかわらずシズカでした。けれど今そこは、静かでありながら、生きていました。
作者のことば
この物語は「沈黙」というひとつの言葉から始まりました。
沈黙はときに平和のように見えます。争いがなく、騒ぎがないからです。けれど、みなが怖くて口をつぐむ沈黙は、平和ではなく抑圧かもしれません。反対に、互いを気づかってしばし息を整える沈黙は、このうえなくあたたかいものになりえます。同じ静けさでも、そのなかに何が込められているかによって、まったく別のものになるのです。
セイラの物語で私が描きたかったのは、大それた英雄ではありませんでした。ただ小さな鳥の歌に心を動かされた一人の子、弟のために初めて勇気を出した一人の人間でした。変化はいつもそのように、いちばん小さく私的な場所から始まるものです。
声を出すということは、ただ音を立てることではありません。それは自分がここにいると、そしてあなたもそこにいると知っていると、互いに知らせ合うことです。この短い物語が、あなたの心のどこかに結ばれていた小さな結び目をひとつ、そっとほどくことができたなら、うれしく思います。
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セイラが生まれた町の名は「シズカ」といいました。