星を見たキツネ
深い森のはずれ、小さな丘の上に、一匹の若いキツネが住んでいました。
キツネは賢くて働き者でした。毎朝、野原をかけめぐって食べ物を探し、昼間はあたたかな日なたで毛づくろいをし、夕方には丘のてっぺんに座って日が沈むのをながめました。
キツネの巣穴は居心地がよいものでした。枯れ草を敷いた床はふかふかで、入り口からはいつもほどよい風が出入りしました。食べ物は十分にあり、水は近くの小川から汲んで飲みました。キツネの暮らしには何ひとつ足りないものがありませんでした。
少なくとも、その夜までは。
ある晴れた秋の夜、キツネはいつものように丘にのぼりました。すると、その夜にかぎって空がとりわけ澄んでいました。昼のあいだ吹いていた風が雲をすべて掃きはらい、空は磨きあげた鏡のように澄んでいました。数えきれないほどの星が宝石のように散りばめられていました。
なかでも東の空に浮かぶひとつの星が、ほかのどの星よりも明るく輝いていました。その星は青みがかった光をおびて、まるで生きているかのようにかすかに震えていました。
キツネはその星から目を離せませんでした。
「あんなに美しいものが世にあったとは。」
キツネの心に小さな火種がひとつ灯りました。最初はただの感嘆でした。星が美しいという、純粋な感嘆。けれど感嘆はやがて、別の何かに変わっていきました。
キツネは知らず知らずのうちにこうつぶやきました。
「あの星がほしい。あの星がわたしのものなら、わたしは世界でいちばん幸せなキツネになれるのに。」
そのひと言が口から出たとたん、キツネの心は妙に変わりました。さっきまで十分だったすべてが、急につまらなく感じられました。居心地のよい巣穴も、十分な食べ物も、近くの小川も。あの星を手に入れないかぎり、そのすべてが何でもないもののように思えました。
その夜、キツネはなかなか眠れませんでした。巣穴のなかに横たわっても、しきりに東の空が思い浮かびました。目を閉じると、あの青みがかった光がまぶたの裏でちらついていました。
星を追うキツネ
翌日からキツネは、星をわがものにしようと懸命になりました。
キツネは星の浮かぶ東へ走りました。野原をわたり、小川を越え、丘を越えました。足の裏がすりむけるほど走りました。けれど、どれほど走っても星は近づきませんでした。星はいつも同じ距離で、同じ高さで輝いていました。一歩近づくと、星も一歩しりぞくかのようでした。
「近くで見れば、もっとよく届くだろう。」
キツネはいちばん高い木にのぼってみることにしました。爪が折れるほど木をよじのぼりました。枝が折れ、皮に肌がすれました。それでも止まりませんでした。ついにいちばん高い枝の先にのぼると、キツネは全身を伸ばして前足を差し出しました。
けれど星はあいかわらず遠いかなたにありました。指先に触れるのは冷たい夜気だけでした。
「木では足りない。山なら違うはずだ。」
キツネはいちばん高い山にのぼってみることにしました。幾日も歩きました。足は凍え、お腹はすきましたが、キツネはただ星だけを思いながら歩きました。ついに山頂にたどり着きました。そこは里のどこよりも空に近い場所でした。キツネは息を切らしながら、星に向かって力いっぱい飛び上がりました。
けれど星は少しも近づきませんでした。山頂から見ても、丘から見ていたのとまったく同じ距離でした。
キツネは山頂に座りこんで、長いあいだ泣きました。
そうして季節が変わりました。キツネはしだいにやせ細っていきました。つやのあった毛はぱさつき、澄んでいた目はにごりました。食べ物を探すことも忘れ、日なたで毛づくろいをすることも忘れました。ただ星のことだけを思いました。
星を手に入れられないという事実が、キツネをむしばんでいきました。かつて何ひとつ足りないもののなかったキツネの暮らしは、いまやただひとつの欠乏で満たされていました。持っているものを数える代わりに、持っていないたったひとつを数えながら、キツネはしぼんでいきました。
年老いたヒキガエルの言葉
山をおりたある日、疲れきったキツネは見知らぬ森をさまよい、小さな池にたどり着きました。
キツネはのどがかわいていました。幾日もろくに食べも飲みもしていませんでした。キツネは池のほとりに崩れるように座りこみ、水をなめました。冷たい水がかわいたのどをうるおすと、少し正気にかえりました。
そのとき、近くの岩の上から、低くゆっくりとした声が聞こえてきました。
池のほとりには、年老いたヒキガエルが一匹座っていました。ヒキガエルは長らくその場所で暮らしてきたのか、背中に苔がむしていました。目は半ば閉じていましたが、そのなかには静かな光が宿っていました。
「若いキツネよ、なぜそんなに疲れて見えるのだ。」
キツネはため息をついてわけを話しました。東の空の星があまりに美しくてほしいのに、木にのぼっても山にのぼっても、どれほど努めても届かないのだと。だから自分は決して幸せにはなれそうにないのだと。
ヒキガエルは長いあいだキツネを見つめました。その遅い目には、長く生きた者だけがもちうる深さが宿っていました。それからヒキガエルはゆっくりと尋ねました。
「若いキツネよ、ひとつ尋ねよう。星を手に入れたら、おまえは何をしたいのだ。」
キツネは一瞬ためらいました。一度も考えたことのない問いでした。星がほしいという気持ちばかりでいっぱいで、手に入れて何をするかは考えたこともありませんでした。
「それは……手に入れたら……幸せになれるから。」
「では、もう一度尋ねよう。」ヒキガエルは目をしばたたきました。「おまえは星を手に入れて幸せなのか、それとも星をながめて幸せなのか。」
キツネは答えられませんでした。口を開いては閉じることを、何度もくり返しました。考えてみれば、キツネをいちばん幸せにした瞬間は、星を初めてながめたあの夜でした。手に入れようと心に決める前、ただ美しさに感嘆していたあの瞬間。
ヒキガエルは池のほうへあごをしゃくりました。
「あの水を見てごらん。」
池に映る星
キツネは池をのぞきこみました。
おだやかな水面の上に、まさにその星が映っていました。東の空でいちばん明るく輝いていたその星が、池のなかでも同じように瞬いていました。まるで手を伸ばせば届きそうなほど近くに。
キツネは驚いて前足を水にひたしました。星がこんなに近くにあるなら、今度こそつかめそうな気がしました。その瞬間、星のすがたがさざ波にくだけて散りました。光は数十のかけらに散らばって、水面を漂いました。
キツネはあわてて足を引きました。そして息をひそめて待ちました。波がおさまると、星はふたたび、まるごとのすがたで浮かびあがりました。くだけた光がゆっくりとひとつに集まり、はじめとまったく同じ星になりました。
「見たかね。」ヒキガエルが言いました。「星はつかもうとすればくだけ、そっとしておけばそばにとどまる。おまえはとうに星を持っていたのだ。毎晩それをながめることができたのだから。ただおまえは、それを『所有』とは呼ばなかっただけなのだよ。」
キツネは何も言えませんでした。ヒキガエルの言葉が、胸の奥深くをゆっくりとたたきました。
「世には二つの持ちようがあるのだ。」ヒキガエルは続けました。「手につかむ持ちようと、心におさめる持ちようとな。手につかもうとすればくだけるものを、おまえは心におさめることができたのだ。星も、夕焼けも、風も、みなそういうものだ。つかもうとすれば消え、そばに置けばとどまる。」
キツネは池に映る星を長いあいだながめました。つかもうとしないと、星はその場にじっととどまっていました。そして不思議なことに、つかもうとあがいていたときよりも、いまのほうがずっと星に近く感じられました。
帰り道
キツネは池のほとりでひと晩を過ごしました。
ひと晩じゅう、キツネは水に映る星をながめました。風が吹けば星はさざ波に揺れ、風がおさまれば星はふたたびくっきりとしました。キツネはそのすがたを見ながら、自分がこれまでどれほど愚かだったかを、ゆっくりと悟りました。
キツネは星を手につかもうと足の裏がすりむけるほど走り、爪が折れるほど木にのぼり、幾日も飢えながら山を越えました。けれど、いざ星をいちばん近くに感じたのは、何もせずにただながめるいまこの瞬間でした。
「わたしは星を追いかけるあまり、星をながめる時間を失ってしまったのだな。」
キツネはヒキガエルに頭を下げました。
「ありがとうございます、ご老人。わたしは持っていないものひとつだけを数えて、すでに持っている数えきれないものを忘れていました。」
ヒキガエルはにっこり笑いました。苔のむした背中が月光にきらめきました。
「悟ったならそれでよい。もうひとつ言っておこう。その悟りを、おまえひとりだけで抱えこむでないぞ。いつかおまえのように星を追って疲れた者に出会ったら、今日聞いた話をその者に聞かせておやり。知恵は分かちあうほど明るくなる星のようなものだからな。」
キツネはその言葉を胸に刻みました。そして夜が明けると、軽やかな足どりで丘へと帰っていきました。
二つめの星
その日から、キツネはふたたび以前の暮らしに戻りました。
朝には野原で食べ物を探し、昼には日なたで毛づくろいをしました。そして夕方には丘のてっぺんに座って、東の空の星をながめました。キツネはもう星を追いませんでした。ただ毎晩、その星と挨拶をかわしました。
「こんばんは、今日も輝いているね。」
そんなある夜、キツネは丘で小さな野ウサギに出会いました。野ウサギは丘の下のほうにうずくまって、東の空を見上げていました。すっかりしょげかえったすがたでした。
「どうしたんだい。」キツネが尋ねました。
「あの星が……ほしいんだ。東の空でいちばん明るいあの星だよ。でも、どれだけ走っても届かない。木にのぼっても、野原を横切ってもだめだった。ぼくは決して幸せにはなれないんだ。」
キツネはにっこり笑いました。そのすがたが、まるで昔の自分のようだったからです。キツネは怒ったり笑ったりせず、やさしく言いました。
「わたしもかつて、きみとそっくりだったんだよ。」
キツネは野ウサギを池のほとりへ連れていきました。夜道を歩くあいだ、キツネは自分が星を追って山を越え、木にのぼった話を聞かせました。そして年老いたヒキガエルに出会い、水に映る星を見た話も。
池のほとりに着くと、キツネは静かな水面を指さしました。そこにはあの星がくっきりと映っていました。
「ごらん。星はつかもうとすればくだけ、そっとしておけばそばにとどまるんだ。きみは毎晩あの星をながめることができる。それだけで、星はもうきみのものなんだよ。手につかまなければ持ったことにならない、というわけではないのさ。」
野ウサギは長いあいだ水に映る星をながめました。前足をそっとひたすと星がくだけ、そっとしておくとふたたびくっきりとしました。野ウサギはそのすがたを何度もくり返してみました。それからゆっくりとうなずきました。しょげかえっていた顔に、小さな笑みが広がりました。
ともにながめる星
その日から、キツネと野ウサギは毎晩丘で会うようになりました。
二匹は並んで座り、東の空の星をながめました。ある夜は星がとりわけ明るく、ある夜は雲に隠れて見えませんでした。見えない夜にも、二匹はがっかりしませんでした。雲の向こうに星があることを、いまでは知っていたからです。
夜ごと二匹はあれこれと語りあいました。野ウサギは野原で見た野の花の話をし、キツネは山を越えていたころの冒険話を聞かせました。星をながめる時間は、いつしか互いを知っていく時間になりました。同じ星を見上げているあいだ、二つの心も同じところを向いていました。
キツネは気づきました。星を持てなくて寂しかったのではなく、星を一人でながめていて寂しかったのだということを。同じ星をともにながめる誰かがそばにいるということ、それが星を所有することよりも、ずっと輝かしいことなのだということを。
冬の夜
冬が来ました。
冷たい風が丘をなで、野原には霜がおりました。それでもキツネと野ウサギは、丘にのぼることを欠かしませんでした。寒い夜ほど空は澄み、星はくっきりとしていました。
ある厳しく寒い夜、野ウサギが体を震わせました。キツネは何も言わずに近づき、野ウサギのそばにぴたりと寄りそって座りました。二つの小さな体が、互いのぬくもりを分けあいました。星明かりの下で、二匹は寒さを忘れました。
「キツネさん。」野ウサギが静かに言いました。「前は星を持てなくて悲しかったのに、いまは星を持てなくてもちっとも悲しくない。不思議だね。」
「不思議じゃないさ。」キツネは微笑みました。「きみはもう、星よりあたたかいものを持ったのだから。」
野ウサギはキツネの肩に頭をもたせかけました。二つの影がひとつに重なりました。東の空の星は、いつにもましてやさしく輝きました。
ふたたび、誰かに
翌年の春、丘に新しい客が訪れました。
今度は幼いリスでした。リスは東の空の星を見上げて、ほしくてたまらないというように足をばたばたさせました。キツネと野ウサギは顔を見あわせてにっこり笑いました。
今度は野ウサギが先に口を開きました。
「あの星がほしいのかい。こっちへおいで。きみに聞かせたい話があるんだ。」
野ウサギはリスを池のほとりへ連れていきました。そして水に映る星を指さしながら、いつかキツネが自分に聞かせてくれたあの話を、そのまま聞かせました。星はつかもうとすればくだけ、そっとしておけばそばにとどまるのだと。ながめるだけで、星はもうきみのものなのだと。
キツネは少し離れたところからそのすがたを見守りました。自分がヒキガエルに学んだことが、野ウサギを経て、いまリスへと流れていました。知恵は分かちあうほど明るくなる星のようだ、というヒキガエルの言葉が思い浮かびました。本当にそのとおりでした。
その夜、丘の上には三つの小さな影が並んで座り、星をながめました。
最後の夜
キツネはもう、世界でいちばん輝く星をわがものにしたいとは思いませんでした。キツネが手にしていたものは、それよりも尊いものでした。毎晩ともに空を見上げる友たち、そして、つかもうとあがかなくても、いつもその場で輝いてくれる星。
歳月が流れ、キツネは老いました。毛には白いものがまじり、歩みは遅くなりました。けれど星をながめる目だけは、いまも澄んでいました。
ある春の夜、キツネは丘に座って東の空を見上げました。かたわらには、いまや大人になった野ウサギとリス、そして彼らが連れてきたほかの幼い獣たちがいました。丘は星をともにながめる者たちで満ちていました。
キツネはそっと微笑みました。そして星に向かって静かに挨拶しました。
「こんばんは。今日も輝いているね。そしていまは、わたしは一人ではないんだよ。」
丘の上で、いくつもの小さな影が並んで星をながめていました。星は今日も変わることなく、そしてやさしく輝いていました。
モチーフ解説
この寓話には、古いひとつの考えが込められています。
私たちはしばしば、何かを「持つこと」がそのまま「幸せ」だと思いこみます。だから星を手につかもうとするキツネのように、届かないものを追いかけるあまり、すぐそばにある喜びを取りこぼしてしまいます。けれど、ある種の美しさは、所有するときではなく、ながめるときにいちばん輝きます。夜空の星のように、遠くにあるからこそ美しいものがあるのです。
そしてもうひとつ、この物語は同じ星を「ともに」ながめることについてのものでもあります。キツネはヒキガエルの知恵を通して満足を学び、その気づきをまた野ウサギに分けあたえました。知恵と慰めはそうやって、一人から次の一人へと伝わっていきます。そしてその過程で、一人でながめていた星は、ともにながめる星になるのです。
この短い物語が説教にならないことを願っています。ただ、ある晴れた夜、あなたが空を見上げるとき、つかもうとあがかなくてもすでにあなたのそばで輝いているものを、ふと思い浮かべることができたなら、うれしく思います。
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深い森のはずれ、小さな丘の上に、一匹の若いキツネが住んでいました。