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필사 모드: 自由意志は存在するのか 決定論と両立可能論のあいだで

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はじめに 手を上げる瞬間の小さな謎

いま、右手を少しだけ上げてみてください。特に理由もなく、気が向いたときに一度上げて下ろすだけで結構です。終わりましたか。それなら、ここから古くからの問いが始まります。いま手を上げたのは本当にあなたが自由に選んだことだったのでしょうか。それとも、あなたが意識的に決心したと感じる前に、すでに脳のどこかで決定が下されていたのでしょうか。

この何でもない動作ひとつに、人類が数千年のあいだ格闘してきた問題がまるごと詰まっています。私たちは毎日、数えきれないほど多くの選択をしながら生きています。朝に何を食べるか、誰に先に連絡するか、腹が立ったときに我慢するか爆発するか。そして、その選択が自分のものだと固く信じています。ところが、もし宇宙のすべての出来事がそれ以前の原因から隙間なくつながった結果であり、ビッグバン直後の粒子の配置さえ分かれば、今日あなたが上げた手まで原理的に予測できるとしたら、その手はやはりあなたの自由な選択と呼べるのでしょうか。

この文章は、その問いをめぐる三つの大きな立場を順を追って見ていきます。決定論、両立可能論、そしてリバタリアン的自由意志です。続いて、神経科学がこの論争に投じた有名な実験ひとつを覗き込み、最も熱い争点である道徳的責任へと進みます。あらかじめお伝えしておきますが、この文章はどれか一つの立場が正解だと結論づけることはしません。哲学で最も古く、最も激しい論争の一つだからこそ、それぞれの立場がなぜそれほど強力なのかを公正に示すことが目的です。

なぜこの問いは消えないのか

興味深いのは、科学がどれほど発展してもこの問いがなかなか消えないという事実です。天文学は天動説を廃棄し、化学は錬金術を卒業しました。ところが自由意志の問題だけは、数千年が経っても依然として生きた争点として残っています。なぜでしょうか。

一つの理由は、この問いが事実の問題であると同時に意味の問題でもあるからです。宇宙がどう働くかは科学が答えられる事実の領域です。しかし、自由であるとは何を意味すべきか、責任とはどんな条件で成り立つのかは、私たちが共に定めていく概念と価値の領域です。この二つの層が一つに絡み合っているために、どちらか一方の発展だけでは問題がすっきり閉じないのです。

もう一つの理由は、この問いが私たち自身に向かっているからです。星の軌道を問うのとは違い、自由意志を問うことは、問う自分を鏡に映すことです。私は本当に自分の人生の作者なのか、それとも巨大な脚本の一人の役者なのか。この問いは、私たちが自分をどんな存在として理解するかに直結しているので、簡単に手放しにくいのです。だからこの文章もまた、答えを下すよりも、その鏡を少しだけ鮮明に磨くことをしようとしています。

歴史の一場面 意志をめぐる古い争い

自由意志の問題がどれほど古いのか、少し時間をさかのぼってみましょう。古代の思想家たちはすでに運命と人間の決断のあいだで悩んでいました。ある学派は世界が緻密な因果の網で織られていると見ながらも、人間がその流れにどんな態度で応じるかによって人生が変わると教えました。流れそのものは変えられなくても、その流れを受け止める心の構えは私たちの分だ、という奇妙な折衷でした。

中世に移ると舞台の照明が変わります。今や中心の問いは神の予知と人間の自由でした。もし全能の神が私が明日何をするかをすでに完璧に知っているなら、私の明日はすでに固定されているのではないでしょうか。だとすれば私の選択は、定められた脚本を読むだけのことにすぎないのではないでしょうか。当時の思想家たちはこの問題をめぐって、数百年にわたり精緻な論証を積み上げました。ある者は神の知が時間の外にあって未来を強制しないと答え、また別の者は神が私たちの自由な選択をその自由なまま知っていると見ました。

近代に入り科学がめざましく発展すると、舞台の主役はもう一度変わります。今や人間の意志を脅かすのは神の予知ではなく自然法則そのものでした。天体の運動が方程式できれいに予測されるのを見た人々は、同じ法則が人間の心と行動にも適用されない理由はないと考えはじめました。こうして今日私たちが向き合う形の自由意志の論争、すなわち自然科学的世界像と人間の自由が衝突する舞台が整えられました。この短い回顧が示すように、問いは同じでも、その問いを脅かす相手は時代ごとに衣を着替えたのです。

第一の風景 すべては決まっているという考え

決定論とは何か

決定論を簡単に言えばこうです。宇宙の現在の状態と自然法則が与えられれば、未来のすべての出来事はただ一通りの仕方でのみ起こるという考えです。言い換えれば、過去が未来を隙間なく固定するということです。どんな出来事もそれ以前の出来事の必然的な帰結であり、そこに別の可能性が入り込む余地はありません。

この描像を最も鮮明に表現した人物として、十八世紀から十九世紀へと移る時期のフランスの学者ピエールシモン ラプラスがよく引かれます。彼はある架空の巨大な知性を想像しました。その知性がある一瞬に宇宙のすべての粒子の位置と運動量を正確に知り、十分な計算能力を備えているなら、その知性にとっては未来も過去も現在のように一望のもとに広がるだろうという描像です。よくラプラスの悪魔と呼ばれるこの思考実験は、古典物理学が描いた宇宙の姿を凝縮して示しています。

決定論にもいくつかの分かれ道がある

ここで一つの区別が必要です。決定論といっても、すべて同じ決定論ではありません。

物理的決定論あるいは因果的決定論は、いま説明したように物理法則と過去の状態が未来を固定するという主張です。これが今日の論争の中心にある形です。

神学的決定論は、全能の神の予知や摂理がすべての出来事をあらかじめ定めているという考えです。中世神学において、神の予知と人間の自由意志がどう両立しうるかは非常に重要な問題でした。

論理的決定論は、未来に関する命題も今すでに真か偽かであるという点から出発し、それなら未来はすでに定まっているのではないかと問います。この問題は遠い昔、古代哲学のころから扱われてきました。

この文章で主に扱うのは因果的決定論です。自然科学が描く世界像と最も直接に接しているからです。

決定論が自由意志を脅かす理由

決定論はなぜそれほど脅威に感じられるのでしょうか。核心はいわゆる別のようにもできたという観念にあります。私たちはふつう、ある選択が自由であるためには、少なくとも別のように行為することもできたはずだと考えます。昨日は嘘をついたが本当のことを言うこともでき、その分かれ道で私が真実の側を選ぶこともできたはずだからこそ責任を問える、という直観です。

ところが因果的決定論が正しいなら、過去の状態と自然法則が与えられた以上、私はまさにそのように嘘をつくほかなかったのです。別の選択肢ははじめから実現可能な道ではなかったわけです。この推論を精緻に磨き上げたのが、いわゆる帰結論証と呼ばれる論証です。その骨子はおおよそ次のように言い換えられます。遠い過去の事実は私にはどうにもできず、自然法則も私にはどうにもできない。ところが私の現在の行為はその過去と法則の必然的帰結である。したがって私の行為もまた私にはどうにもできないものである。こうした形の論証です。

この論証を受け入れると、自然とある立場にたどり着きます。決定論が真なら自由意志は幻想だという立場、すなわち強い決定論あるいは自由意志否定論です。しかし誰もがこの結論を受け入れるわけではありません。まさにここで第二の風景が開けます。

決定論へのよくある直観的な抵抗

決定論をはじめて聞くと、ほとんどの人は本能的な拒否感を覚えます。その拒否感の根源を覗き込むと、いくつかの直観が見えてきます。一つは内的経験の生々しさです。私はいまこの文を書くか書かないかを本当に自由に決めているように感じます。この感覚がどうして幻想でありうるのか、という抗議です。決定論者はこれに対し、感覚が生々しいということが、その感覚が事態を正確に反映している保証にはならないと答えます。私たちは太陽が東から昇って西へ沈むと生々しく感じますが、実際に動いているのは私たちが立っている地球です。

もう一つの直観は予測不可能性です。人間の行動はあまりに複雑で誰も正確に予測できないのだから、それは決定されていないのではないか、という考えです。しかし決定論者は予測不可能性と非決定性を区別せよと言います。天気は事実上きわめて予測しにくいものですが、だからといって天気が自然法則を外れて好き勝手に動くわけではありません。私たちが予測できないことと、原理的に定まっていないことは、まったく別の問題だという指摘です。

こうした応答が示すように、決定論は私たちの素朴な直観と真っ向からぶつかりながらも、簡単には崩れない手強い立場です。まさにそのために、決定論を認めつつ自由を救おうとする両立可能論が、これほど魅力的な選択肢として浮かび上がるのです。

第二の風景 二つは仲良く暮らせる

両立可能論の核心の発想

両立可能論は、その名のとおり決定論と自由意志が互いに両立しうると見ます。つまり宇宙が因果的に決定されていても、私たちは依然として意味のある意味で自由で責任ある存在でありうるという立場です。一見すると言葉遊びのようですが、その中にはかなり堅固な洞察が含まれています。

両立可能論者はまず、自由という語が何を意味するのかを改めて問い直します。彼らの診断はこうです。自由意志が脅かされると感じるとき、私たちは実は二つの異なるものを混ぜ合わせている、というのです。一つは強制からの自由であり、もう一つは因果からの自由です。

銃口を突きつけられて金庫を開けろと脅され金庫を開ける人と、何の脅しもなく自ら決意して金庫を開ける泥棒を思い浮かべてみましょう。どちらも物理的には因果の網の中にあります。しかし私たちは直観的に二人をまったく違って扱います。前者には責任を問わず、後者には責任を問います。両立可能論者は、まさにこの違いこそ自由意志が実際に働く場所だと言います。自由であるとは因果の鎖の外にあるという意味ではなく、私の行為が外部の強制ではなく自分自身の欲求と熟慮から生じたという意味だ、というのです。

ヒュームからデネットへと続く流れ

この発想の古典的な形は、十八世紀のスコットランドの哲学者デイヴィッド ヒュームにはっきりと現れます。ヒュームは、自由と必然が対立するという通念そのものが一種の言葉の混同に由来すると見ました。彼の言う自由とは、意志に従って行為したり行為しなかったりできる能力、すなわち鎖につながれていない状態に近いものです。この意味での自由なら、行為が動機と性格から規則的に続くという事実とまったく衝突しません。むしろ行為が性格と動機から規則的に流れ出るからこそ、私たちはその人に責任を問えるとヒュームは見ました。

現代においてこの路線を最も活発に擁護する人物として、アメリカの哲学者ダニエル デネットがよく挙げられます。デネットは、人々が恐れる自由意志は実は私たちが本当に持ちたいと思うような種類の自由ではないと指摘します。因果の網の外から何の理由もなく飛び出してくる気まぐれな選択は、実のところ制御ではなく無作為に近いものです。私たちにとって本当に大切なのは、未来を見通し結果を吟味し自分を顧みて自らを調律できる能力です。そしてそうした能力は、決定論的な世界でもいくらでも存在しうるというのがデネットの主張です。

両立可能論への反論

もちろん両立可能論にも手強い反論があります。最もよくある批判は、両立可能論が自由意志という語の意味をこっそりすり替えたというものです。人々が自由意志を気にかけるとき本当に問うているのは別のようにもできたかなのに、両立可能論はその問いに答える代わりに、より扱いやすい強制がなかったかという問いへ話題を移した、という批判です。

別の思考実験もあります。ある悪意ある神経科学者があなたの脳をひそかに操作し、あなたが特定の選択をするよう、欲求と熟慮の過程までまるごと植えつけたとしましょう。あなたは外部の銃口もなく自分の欲求に従って行為しますが、その欲求そのものが誰かによって設計されたものです。このときあなたは自由でしょうか。こうした操作の事例は、強制がないという条件だけでは自由を十分に説明しにくいという点を鋭く突きます。そのため多くの両立可能論者は、単に強制がないことを超えて、行為者が自分の欲求を一段上から承認できる能力や理由に応答できる能力といった、より精緻な条件を付け加えます。

第三の風景 自由は因果の鎖を断ち切る

リバタリアン的自由意志

第三の立場はリバタリアン的自由意志です。これは政治用語のリバタリアニズムとはまったく別の文脈である点を、まず押さえておく必要があります。この立場は二つの主張を束ねて掲げます。第一に、私たちには本物の自由意志がある。第二に、その自由意志は決定論と両立しえない。したがって決定論は少なくとも人間の選択に関しては偽だ、という結論に至ります。

リバタリアンは両立可能論の妥協を受け入れません。彼らから見れば、真の自由とは本当に別のようにもできたことを要求し、それは同じ過去と同じ法則のもとでも別の選択が開かれていなければならないという意味です。分かれ道に立ったとき二つの道がどちらも実際に可能であってこそ、ようやく私がその道を選んだと言える、という直観です。この直観は私たちの日常経験ととてもよく合致します。選択の瞬間に、確かに複数の道が開かれていると生き生きと感じるからです。

断たれた鎖を何で埋めるのか

問題は、因果の鎖を断ち切ったあと、その空白を何で埋めるのかということです。もし私の選択が過去によって決定されず、かといって純然たる偶然でもないとすれば、その選択はいったい何によってなされるのでしょうか。

ここでリバタリアンはおおむね二つの分かれ道に分かれます。一つの分かれ道は行為者因果という概念を持ち出します。出来事が出来事を引き起こすふつうの因果とは違い、行為者という存在そのものが新しい因果の出発点になりうるという発想です。すなわち私という行為者が、先行する何らかの出来事に完全には還元されない仕方で行為を引き起こすというのです。もう一つの分かれ道は、ミクロの世界の非決定性、すなわち量子力学的な偶然に期待をかけることもあります。ただしこの二つの道はいずれも手強い難点を抱えており、この点は後でまた扱います。

行為者因果はどう可能なのか

リバタリアンの一つの分かれ道が頼る行為者因果という概念を、もう少し覗いてみる価値があります。ふつう私たちが知る因果は、出来事と出来事のあいだの関係です。ビリヤードの球が別の球を打って動かすように、一つの出来事が次の出来事を引き起こします。ところが行為者因果は、出来事ではなく行為者という持続する存在が、直接、新しい因果の出発点になると見ます。

この発想は魅力的です。それは私たちが選択の瞬間に感じる何か、すなわち私がこの行為の本当の主だという感覚をそのまま捉えるからです。同時にこの発想は厄介な疑問を残します。行為者が出来事の連鎖と無関係に行為を引き起こすなら、その行為者はなぜよりによってこの瞬間にこの行為を引き起こしたのでしょうか。もしその時点と内容に何の先行する理由もないなら、それはまたしても偶然のように見えます。逆に十分な先行理由があるなら、結局その理由が行為を説明することになり、行為者の特別な役割がぼやけます。

このジレンマは、リバタリアン陣営が長く格闘してきた中心的な難問です。ある者は、行為者因果が私たちの持つ他の因果概念には還元されない独自の種類だと主張し、この難しさを正面から抱え込みます。また別の者は、この概念が神秘への訴えにすぎないと批判します。どちらが正しいにせよ、行為者因果をめぐるこの論争は、自由という観念の最も深いところに触れるという点で非常に興味深いものです。

運による反論という厄介な問題

リバタリアンが直面する最も鋭い批判は、しばしば運による反論と呼ばれます。論理はこうです。同じ過去、同じ法則のもとで、私が本当のことを言うこともでき、嘘を言うこともできたとしましょう。ところが実際には嘘を言いました。何がその違いを生んだのでしょうか。過去がその違いを固定したのでないなら、結局その分かれはある程度、運に委ねられたように見えます。ところが運によって分かれた選択を、まるごと私の責任だと言うのは座りが悪いものです。結局、因果の鎖を断ち切って自由を確保しようとした試みが、下手をすると責任の根拠まで一緒に断ち切ってしまう逆説に陥りかねない、というわけです。

一段上の欲求という発想

両立可能論をさらに精緻にした興味深い発想を一つ、少し覗いてみましょう。先に触れた、一段上から欲求を承認するという考えです。私たちは単に何かを欲求するだけでなく、その欲求そのものを欲求したり拒否したりできます。

たとえばある人がタバコを吸いたいと思っているとしましょう。同時に彼は、そんな欲求を持つ自分を不満に思い、むしろタバコをやめたいというより高い次元の欲求も持っています。このとき彼が意志の弱さからタバコを吸うなら、彼は自分のより高い欲求を裏切ったことになります。この描像では、自由な行為者とは、自分の一次的な欲求のうちどれを自分のものとして受け入れ、どれを拒否するかを一段上から調律できる存在です。

この発想が魅力的な理由は、自由を因果の鎖の外ではなく心の構造の中に求めるからです。依存症の人が自由でないと感じるのは、彼が因果の中にいるからではなく、彼の一次的な欲求がより高い欲求を踏みにじるからだというのです。もちろんここにも反論はあります。そのより高い欲求もまたどこかで与えられたものだろうから、だとすれば無限に上へ昇っていかねばならないのではないか、という問いです。それでもこの発想は、自由という曖昧な言葉を心の内部構造という具体的な描像へ移したという点で大きな貢献をしました。

三つの立場を一目で

ここまで見てきた三つの立場を表に整理すると、次のようになります。

| 区分 | 決定論との両立 | 別のようにもできたか | 主な強み | 主な弱み |

| --- | --- | --- | --- | --- |

| 強い決定論 | 両立不可 自由意志を否定 | 不可能 | 科学的世界像とよく合う | 責任と日常経験を説明しにくい |

| 両立可能論 | 両立可能 | 条件つきの意味でのみ可能 | 責任の実践をよく説明する | 自由の意味を変えたという批判 |

| リバタリアン的自由意志 | 両立不可 自由意志を肯定 | 本当に可能 | 日常の直観とよく合う | 運による反論と形而上学的負担 |

表が示すように、三つの立場はそれぞれ強みと弱みを持っています。どの欄も完全に空ではないという事実が、この論争がなぜそれほど長く続くのかを物語っています。一方の強みが他方ではちょうど弱みになるという、奇妙な構造だからです。

混沌と複雑性 決まっていても予測はできない

決定論の話を締めくくる前に、よく誤解を招く一つの概念を押さえておくとよいでしょう。すなわち混沌、あるいはカオスです。二十世紀後半に発展したカオス理論は、ごく単純で完全に決定論的な規則に従う体系でさえ、初期条件のわずかな違いに極度に敏感で、事実上予測不可能になりうることを示しました。よく、蝶の羽ばたきが遠くの天気を変えるという比喩で語られる話です。

ここで重要なのは、予測不可能であることが非決定論を意味するわけではないという点です。カオス系は一片の偶然もなく法則に従って転がりますが、私たちが初期条件を無限に精密には知りえないため、未来を見通せないだけです。これは、ラプラスの悪魔という思考実験がなぜ単なる空想にとどまるのかをよく示しています。たとえ宇宙が完全に決定論的だとしても、それを実際に計算して未来を知る存在は現実には存在しないのです。

この区別は自由意志の論争でも意味があります。ある人は人間の行動の予測不可能性を自由の証拠として持ち出そうとしますが、混沌の教訓はその推論にブレーキをかけます。予測できないという事実だけでは、何ものも決定論を反駁できません。同様に、宇宙が決定論的だという事実が、私たちが未来をすべて知っているという意味でもありません。決まっていることと、知りうることは、まったく別の二つです。この小さな区別を見落とすと、自由意志の論争は見当違いのところで空回りしやすいのです。

深く覗き込む 脳は私たちより先に決めるのか

リベットの準備電位実験

ここで、神経科学がこの論争に投じた最も有名な小石ひとつを見てみましょう。一九八〇年代に、アメリカの神経生理学者ベンジャミン リベットは今も語り継がれる実験を行いました。その設計の骨子は次のとおりです。

実験参加者に、いつでも気が向いたときに手首や指を軽く動かすよう求めます。同時に頭には脳の電気活動を測定する装置を取りつけます。そして参加者には特別に作った時計を見せながら、動かしたいという衝動を最初に意識したまさにその瞬間に時計の点がどこにあったかを覚えておくよう頼みます。こうすると三つの時点を比較できます。脳活動が始まった時点、意識的に動かそうとする意図を感じた時点、そして実際に筋肉が動いた時点です。

リベットが報告した結果は衝撃的でした。運動を準備する脳の電気活動、いわゆる準備電位が、参加者が動かそうとする意図を意識する数百ミリ秒前にすでに上昇しはじめていた、というのです。乱暴に言えば、脳はあなたが動かそうと決心したと感じる前に、すでに動きを準備していたわけです。この結果は、意識的な意志が行為の本当の原因ではなく、あとから付け足される解説にすぎないのではないか、という挑発的な解釈を呼び起こしました。

その後の研究もこの流れを継ぎました。二〇〇〇年代後半には機能的磁気共鳴画像法を用いた研究が報告され、ある条件のもとでは参加者が意識的に決定を下す数秒前に、脳活動のパターンだけからその選択をある程度予測できたといいます。こうした結果は、自由意志が結局は脳のあとづけの言い訳にすぎないという主張に力を貸すように見えました。

しかし実験はそれほど単純ではない

ここで止まると結論が早すぎます。リベット実験は発表直後から今に至るまで絶え間ない方法論的批判を受けてきており、その批判はかなり重みがあります。

第一に、意図を最初に感じた瞬間を時計を見て報告させる方式そのものが正確なのか、という問題があります。意識の時点をミリ秒単位で自己報告させることは、それ自体が誤差と歪みに弱いものです。

第二に、準備電位の正体についての再解釈があります。比較的最近の研究者の一部は、準備電位は決定を下す信号というより、脳が何かをしようかどうしようかと迷いながら漂う背景的な神経活動の自然な蓄積でありうると提案しました。この解釈によれば、準備電位の上昇は決定がすでに下されたという証拠ではなく、決定が熟すのを待つ揺らぎに近いものです。こうした批判はアーロン シュルガーをはじめとする研究者の仕事とともによく言及されます。

第三に、より根本的な問題は実験の適用範囲です。指をぴくりと動かすような意味のない即興的な動作が、職業を選んだり道徳的なジレンマの前で悩んだりするのと同じ種類の自由な選択を代表すると見てよいのでしょうか。多くの哲学者は、この二つのあいだに大きな隔たりがあると見ます。深い熟慮の末に下される選択は、一回限りの衝動とは質的に異なる過程でありうるのです。

第四に、たとえ脳活動が意識に先立つという事実を認めても、それがただちに自由意志の否定につながるわけではありません。両立可能論者にとっては、そもそも行為が脳活動から生じることは少しも不思議ではありません。決定が脳で起こるという事実と、その決定が私のものだという事実は衝突しないからです。

まとめると、リベット実験は意識と行為の関係について興味深い問いを投げかけましたが、自由意志が幻想であることを証明したと言うには道のりが遠いのです。科学は素敵な手がかりを与えたにすぎず、哲学的問題を代わりに解いてくれたわけではありません。

意識の座 決定と感覚のあいだの隙間

リベット実験が触れた最も微妙な地点は、意識的な感覚と実際の決定のあいだの関係です。私たちはふつう、何かをしようと決心するその感覚こそが決定の瞬間だと考えます。しかし、意識的な感覚が決定過程のすべてではなくその一部である可能性、あるいは決定が熟したあとに浮かび上がる自覚である可能性は、十分に真剣に吟味する価値があります。

ここで興味深い折衷案を一つ紹介できます。ある研究者たちは、リベット実験を自由意志の否定としてではなく、自由意志の働き方についての再記述として読もうと提案します。リベット自身も、準備電位が上昇したあとであっても、行為が実際に起こる直前の短い瞬間に、その行為を止める余地、いわゆる拒否権が残っていうると見ていたと伝えられます。衝動が浮かぶのは自動的であっても、その衝動を実行に移すかどうかを最後の瞬間に検閲する能力に自由意志の核心がありうる、という描像です。この描像が正しいかどうかはまた別の論争ですが、少なくとも決定と意識の関係が単純な一対一の対応ではないという点だけは明らかです。

このくだりで私たちは一つの謙虚さを学びます。私たちは自分の心について思ったほどよく知りません。ある選択をしたあとにその理由をもっともらしく説明しますが、その説明が実際の原因とどれほど一致するかはまた別の問題です。心理学のさまざまな研究は、人々が自分の行為の本当の原因をしばしば取り違えながらも、とても自信ありげに理由を述べるという点を示しています。こうした発見は自由意志を直ちに否定はしませんが、私たちが自分の透明な主人だという素朴な描像には確かに影を落とします。

最も熱い争点 では責任はどうなるのか

自由意志と道徳的責任

この論争がただの暇な思弁にとどまらない理由は道徳的責任です。私たちは称賛と非難、報酬と処罰という巨大な制度の上で生きています。ところがそのすべては、人が自分の行為に責任を負えるという前提の上に立っています。もし誰一人として結局は自分の行為を制御できないなら、称賛と非難に何の意味があるのでしょうか。

ここで立場によって描像が大きく分かれます。ある自由意志否定論者たちは、責任という概念を根本から考え直さねばならないと主張します。誰かが結局は自分の行為の究極の原因でないなら、彼を懲らしめるための処罰、すなわち応報的処罰は正当化しにくい、というのです。ただしこうした人々も、社会が責任概念をまるごと廃棄すべきだとは言わない場合が多いのです。むしろ処罰の目的を懲らしめから保護と教化、再発防止のほうへ移すべきだと提案することがあります。

一方で両立可能論者は、責任を救うためにわざわざ因果の鎖の外へ出る必要はないと見ます。ある人が正常な熟慮の能力を備え、理由に応答でき、外部の強制なく行為したなら、彼に責任を問うことは十分に正当だ、というのです。この観点から見れば、称賛と非難は単に過去を裁く行為ではなく、互いの行為を調律しより良い方向へ導く社会的実践でもあります。

反応的態度というもう一つの観点

道徳的責任を理解する非常に影響力のあるもう一つの道は、責任を抽象的な形而上学からではなく、私たちが互いに示す自然な感情と態度から出発して説明しようとする試みです。二十世紀半ばのある影響力ある議論は、私たちが他人に接するときに示す感謝、怒り、恨み、赦しといった反応的態度に注目しました。

この観点の核心はこうです。私たちが誰かに責任を問うとは、本質的に彼を私たちと同じ道徳的対話の相手として扱うという意味です。誰かの無礼に怒るのは、彼が私たちを尊重すべきだったという期待を彼にかけているという信号です。私たちがこうした態度を引っ込めるのは、たいてい相手が幼い子どもであったり、深刻な精神的困難を抱えていたりして、道徳的対話の相手と見なしにくいときです。この観点によれば、責任の問題は宇宙が決定されているか否かをまず解くところから始まるのではありません。むしろ、私たちが人間として互いに自然に示すこれらの態度があまりに根本的なので、抽象的な決定論の論証だけでまるごと廃棄されることは難しいのです。

この発想は両立可能論に深みを加えました。責任を形而上学的な自由の有無ではなく、人間関係の実際の織りなしの中に求める道を開いたからです。もちろんここにも反論はあります。もし私たちの反応的態度そのものが何か誤った前提に頼っているなら、それがどれほど自然で根深くても修正されるべきではないか、という問いです。このように責任をめぐる議論は、一枚はがすとまた一枚現れる、深く精緻な迷路のようなものです。

バランスのとれた視線が必要な場所

このくだりでは特に慎重である必要があります。神経科学が自由意志を否定したのだから誰も自分の行為に責任はない、といった単純な結論は科学的にも哲学的にも正当化されません。先に見たように実験結果の解釈は依然として開かれており、責任概念が必ず鎖の外の自由を要求するのかも論争中です。同時に、一人の人間の成育環境や脳の状態、社会的条件が彼の選択に深く影響するという点を真剣に受け止める態度もまた重要です。責任を一気に否定することも、すべての結果をひとえに個人のせいにすることも、どちらも事態を過度に単純化する道です。

三つの立場は本当に和解できないのか

ここまでの話を聞くと、三つの立場が永遠に平行線をたどるように見えるかもしれません。しかしよく見ると、これらが異なる問いに答えているという事実が明らかになります。そしてこの気づきは論争をもう一段深いところへ連れていきます。

強い決定論者が投げる問いは、宇宙が根本的にどうできているかです。彼らの答えは、すべてが因果でつながっているということです。両立可能論者が投げる問いは、私たちが責任という実践をどう正当化できるかです。彼らの答えは、強制なく理由に応答して行為する能力で十分だということです。リバタリアンが投げる問いは、本当に開かれた未来が存在するかです。彼らの答えは、少なくともある瞬間にはそうだということです。

こう見ると、三つの立場の衝突のかなりの部分は、実は同じ言葉を異なる意味で使うことから来ます。自由という一語の中に、因果からの独立、強制からの自由、開かれた可能性という複数の意味が重なっているのです。そのためある哲学者たちは、この論争の半分は形而上学の問題であり、残りの半分は私たちが自由という語で何を意味するかを定める約束の問題だとも言います。

もちろん、これがすぐにすべての違いが言葉遊びにすぎないという意味ではありません。宇宙が決定されているか否かは明らかに事実の問題であり、その事実がどちらに判明しても、責任と尊厳についての私たちの理解は影響を受けるでしょう。ただ、互いが正確にどの問いに答えているかを明らかにしておけば、むなしい平行線の代わりに、本当の争点をめぐる生産的な対話が可能になります。良い論争は相手を負かす技術ではなく、私たちがどこで本当に分かれるのかを共に見つけ出す作業に近いのです。

現代の風景 量子力学、法廷、そして日常

量子力学は自由意志を救ってくれるのか

量子力学が登場したことで、ラプラスの悪魔が描いた完璧な決定論の描像にはひびが入りました。ミクロの世界では、ある出来事の結果を確率でしか語れないように見えるからです。そこで一部の人々は、量子力学の非決定性が自由意志の入る隙間を開いてくれると期待します。

しかしこの期待は思ったより慎重に扱う必要があります。第一に、ミクロの世界の非決定性が、脳という温かく巨大なシステムのレベルで意味のある形で増幅されるのかどうかからして不明です。第二に、たとえ脳の中のどこかで量子的な偶然が働くとしても、それは自由ではなく無作為に近いものです。私の選択がコイン投げのように偶然に左右されるなら、それを自由な選択と呼ぶのはむしろいっそう難しくなります。言い換えれば、決定論を偶然で置き換えたからといって、ただちに自由意志が確保されるわけではありません。量子力学は決定論を揺さぶったかもしれませんが、自由意志の問題を解決してくれたわけではないのです。

法は自由意志をどう扱うのか

自由意志の論争は法廷でもこだまします。刑事責任は伝統的に、行為者が自分の行為を制御できたという前提の上に立っています。そのため弁護人はときに被告人の脳画像や神経学的所見を示しながら、彼が自分の衝動を完全には制御できなかったと主張することもあります。

ここでもバランスが必要です。脳に何らかの損傷や異常があるという事実が、ただちに責任の完全な免除につながると見るのは難しいものです。同時に、そうした要素を量刑や処遇で考慮するのは合理的でありうるでしょう。神経科学は法に新しい証拠と視点を提供しますが、誰にどんな責任を問うのかという問いに対する最終的な答えを代わりに下してくれるわけではありません。その答えは依然として社会的合意と価値判断の領分として残ります。

法廷の一場面 責任の境界を問う

自由意志の論争が法廷でどう働くのかを、一つの場面で描いてみましょう。ある人が衝動的に大きな過ちを犯したとしましょう。裁判で弁護人は、彼の脳に衝動を抑える領域の機能異常があったという神経学的所見を提出します。検察官は反論します。そうした異常があっても、彼は自分が何をしているかを分かっており、止めることができたはずだ、と。裁判官と陪審員は今、非常に難しい問いの前に立ちます。脳の状態は責任をどれほど、どのように削るのか。

この場面が示すのは、法が自由意志の問題を回避できないという事実です。刑罰の制度全体が、人が自分の行為をある程度制御できるという前提の上に立っているからです。同時にこの場面は、法が自由意志の問題を哲学のように最後まで掘り下げることもできないという事実をも示します。法は毎度、誰かに具体的な判決を下さねばならないので、形而上学的な結論を待つ余裕がありません。そこで法はたいてい実用的な折衷を取ります。完全な自由でも完全な決定でもなく、正常な人がその状況で別のように行為することを期待するのが妥当だったか、といった基準を立てるのです。

こうした折衷は、ある意味で両立可能論の精神と似ています。法は行為者が宇宙の因果を抜け出したかを問いません。ただ、彼が理由に応答する能力があったか、外部の強制がなかったか、自分の行為を調節する余地があったかを問います。神経科学はこの判断にますます精緻な資料を加えていますが、どこまでを責任と見るのかという最終の線は、依然として社会が共に引かねばならない価値の問題として残っています。

人工知能の時代の新しい鏡

最近になって自由意志の論争は、思いがけない新しい鏡を一つ手に入れました。すなわち、ますます精緻になる人工知能です。ある人工知能システムが人間のように自然に対話し、選択し、さらには迷うような姿を見せるとき、私たちは自然に問うことになります。あのシステムには自由意志があるのか、と。そしてその問いはすぐに鏡のように私たちへ跳ね返ってきます。だとすれば、人間の自由意志はあれと何が違うのか、と。

この比較は奇妙なことに両立可能論と自由意志否定論の両方に興味深い材料を提供します。一方で、複雑な情報処理システムが人間と似た行動を見せうるという事実は、人間の選択もまた結局は精緻な情報処理の産物でありうるという描像に重みを加えるように見えます。他方で、私たちはほとんどの機械について責任や尊厳を語りません。だとすれば、人間を特別にするものは何でしょうか。単に処理の複雑さでしょうか、それとも意識や自己理解といった別の何かでしょうか。

ここでもバランスが必要です。人工知能が人間と似て見えるからといって、人間の心がそれとまったく同じだと直ちに結論することはできません。同時に、人間だけが神秘的な自由の火花を宿していると安易に断定することも、十分な論証なしには空虚です。人工知能という新しい鏡は、答えを与えるよりも、人間の自由と責任が正確にどんな能力に支えられているのかをより鋭く問うよう私たちに迫ります。古い問いが新しい技術に出会い、もう一度若返ったわけです。

日常へ戻って

興味深いのは、これほど巨大な形而上学的論争とは無関係に、私たちは毎日自由意志を前提として生きているという点です。私たちは友人の約束を信じ、自分の決意を固め、過ちを犯した人に謝罪を期待します。ある研究者たちは、自由意志への信念が弱まると人々の行為に変化が生じうる可能性を探りもしました。そうした研究結果の解釈には慎重さが必要ですが、少なくとも自由意志という観念が私たちの実践的な生活の奥深くに根を下ろしているという事実だけは明らかです。この観念をどう理解し磨いていくかは、それゆえ暇な思弁ではなく、私たちが互いをどう扱うかに直結する問題なのです。

自由意志が揺らぐと何が揺らぐのか

この論争が単に学者の頭の中のゲームではないという点を、もう一度押さえておきましょう。自由意志という観念は、私たちの生活のいたるところに静かに染み込んでいます。それが揺らぐとともに揺らぐものの一覧を思い浮かべてみると、この問題の重みが実感されます。

まず後悔と誇りが揺らぎます。私たちは過ちについてあのとき別のようにもできたのにと後悔し、うまくやり遂げたことについて自分がやり遂げたと誇りに思います。この二つの感情はどちらも、別の選択が可能だったという前提の上に立っています。もしすべてがはじめから定まっていたなら、後悔と誇りはどんな意味を持つのでしょうか。両立可能論者ならこう答えるでしょう。後悔は過去へ向けた嘆きというより未来のための学習の信号であり、そう見れば決定論とも衝突しない、と。

次に赦しが揺らぎます。誰かを赦すとは、その人に責任があることを前提しながらその責任を免除する行為です。ところがそもそも誰にも責任がないなら、赦しという言葉は何を意味することになるのでしょうか。もしかすると赦しは、責任を免除することではなく、怒りを手放して関係を新たに始めようとする決意に近いものとして定義し直されるかもしれません。

最後に自分自身との関係が揺らぎます。私たちはより良い人になろうと決意し、悪い習慣を直そうと努めます。このすべての努力は、私が私をある程度変えられるという信念に支えられています。興味深いことに、決定論を受け入れる人々でさえ、たいていこの努力をあきらめません。私が努力するという事実もまた、原因の鎖の中で本当に結果を変える一語だからです。結局、自由意志の論争は抽象的な形而上学として始まり、私たちが自分と他人をどう扱うかという、きわめて具体的な問いへと戻ってくるのです。

思考実験の部屋 四つの場面

抽象的な議論が手に取れないとき、哲学者はしばしば思考実験という小さな舞台を立てます。自由意志の論争でも、いくつかの場面が有名です。順を追って入っていきましょう。

第一の部屋 フランクファートの偽の分かれ道

二十世紀のアメリカの哲学者ハリー フランクファートは、別のようにもできたことが責任の必須条件だという通念を揺さぶる事例を提示したことで有名です。その骨子を言い換えるとこうです。ある人が自ら決心してある行為を行ったとしましょう。ところが、もし万が一その人が別の選択をしようとしたなら、そばで見守っていた誰かがただちに介入して、結局は同じ行為をさせていただろうと仮定します。実際にはその人が自ら行為を選んだので、介入は起こりませんでした。

この事例の妙味はこうです。その人は事実上、別のようにはできませんでした。別の道へ向かおうとした瞬間、介入が彼を引き戻していたはずだからです。それでも私たちは、その人が自分の意志で行為し、したがって責任があると感じます。もしこの直観が正しいなら、別のようにもできたことは責任の必須条件ではないかもしれません。責任に本当に大切なのは、別の道の存在ではなく、その行為が実際にどんな過程を経て私から生じたのかでありうる、というのです。この事例は両立可能論に強力な武器を握らせましたが、同時にその設定が本当に公正なのかをめぐる精緻な反論も果てしなく続きました。

第二の部屋 吸い込まれる決定の川

今度は別の絵を思い浮かべてみましょう。あなたのすべての選択が、生まれる前から流れていた巨大な川の一点だと想像してみるのです。親から受け継いだ気質、幼いころの経験、たまたま読んだ一冊の本、今朝のホルモンの状態まで、これらすべてが合流して、いまこの瞬間の決定へと流れ込みます。強い決定論者は、まさにこの絵を真剣に受け止めるよう勧めます。

興味深いのは、この絵が必ずしも絶望的なものだけではないという事実です。ある自由意志否定論者たちは、むしろこの絵に一種の慰めを見いだします。誰かが恐ろしいことをしたとき、その川全体を見れば、私たちは怒りを越えて理解と憐れみに至ることもできます。もちろん、こうした態度は責任をあまりに簡単に免除するのではないかという批判も小さくありません。川の比喩は魅力的ですが、その魅力がそのまま真理を保証するわけではないのです。

第三の部屋 双子の宇宙

同じ過去を正確に複製した二つの宇宙を想像してみましょう。粒子一つ一つまで同じ二つの宇宙で、ある瞬間に一人の人が同じ分かれ道に立ちます。決定論者は、二つの宇宙でその人は必ず同じ選択をすると言います。一方リバタリアンは、少なくとも真の自由意志が働く瞬間なら、二つの宇宙で別の選択が出てきうるはずだと見ます。

ところがここで運による反論が再び頭をもたげます。もし同じ過去から、一つの宇宙の彼は本当のことを、別の宇宙の彼は嘘を言うなら、その違いはどこから来たのでしょうか。二つの宇宙のすべてが同じだったのですから、その違いを説明する何ものもその人の中にないように見えます。この双子の宇宙の場面は、自由と偶然のあいだの微妙な境界を最も鮮明に示す舞台です。

第四の部屋 私を設計した人

先ほど少しだけ登場した操作の事例を、もう少し押し進めてみましょう。誰かがあなたの生まれる前から、あなたのすべての傾向と価値観を細かく設計したとしましょう。あなたは生涯、自分の信念に従って、強制なく、心から選びながら生きていきます。ところが、その信念の最初のボタンは設計者がかけたものです。このときあなたの人生は自由でしょうか。

この場面が厄介な理由は、設計者をある匿名の自然過程に置き換えても、構造がほとんどそのままだからです。結局、私たちは皆、自分で選ばなかった出発点から始まります。遺伝子も、親も、時代も、私たちが選んだものではありません。だとすれば、私たちの自由ははじめから借り物なのでしょうか。それとも、借り物の材料でも十分に自分だけの何かを築けるのでしょうか。この問いへの答えが分かれる地点が、すなわち三つの立場が分かれる地点でもあるのです。

東洋のまなざし 運命と心のあいだで

自由意志の論争はしばしば西洋哲学の専有物のように紹介されますが、似た悩みは東洋の思想の伝統でもさまざまな形で現れました。ただし問題の枠組みがやや違った形で組まれていました。

たとえばある伝統では、宇宙の流れや道理に従うことを最も高い境地と見ました。このとき自由は流れに逆らう力ではなく、流れと一つになる悟りに近いものです。また別の伝統では、行為とその結果の長い長い鎖を語りながらも、同時にその鎖を断ち切って新しい方向へ進める心の修行を強調することもありました。因果を認めつつ、その中で変化の余地を探すこの緊張は、西洋の両立可能論が投げかける問いと奇妙に似たところがあります。

もちろん、こうした伝統を西洋式の自由意志論争の枠にそのまま当てはめることは慎重であるべきです。それぞれの思想は、それぞれの言語と関心の中で育ったからです。しかし少なくともこの事実だけは明らかです。私の選択は本当に私のものなのか、そして巨大な流れの前で人間は何ができるのかという問いは、特定の時代や地域の専有物ではなく、人間ならどこででも向き合うことになる普遍的な問いだという点です。

自由意志をめぐるよくある誤解 三つ

議論をまとめる前に、この主題で人がよく陥る落とし穴をいくつか押さえておくと役に立ちます。

第一に、決定論を運命論と混同する誤解です。運命論は、何をしても結果が同じに定まっているという諦めの態度に近いものです。しかし決定論はそうした主張ではありません。決定論でも、私の努力と選択は結果に影響を与える本物の原因です。ただ、その努力と選択そのものも原因の鎖の中にあるだけです。ですから決定論が真であっても、努力しても無駄だという結論は出てきません。

第二に、自由意志があるためには行為が何の原因もなく起こらねばならないという誤解です。先に見たように、原因のない行為は自由ではなく無作為に近いものです。ほとんどの真剣な立場は、自由な行為も何らかの形で私の理由と性格から生じなければならないと見ます。自由と無原因は同じ言葉ではありません。

第三に、科学がこの問題をまもなく終わらせるという誤解です。神経科学は確かに貴重な資料を提供します。しかし自由であるとは何を意味するのか、責任とは何かといった問いは、それ自体が概念的で規範的な問いです。どれほど精緻な脳画像も、私たちが自由という語で何を意味すべきかを代わりに定めてはくれません。科学と哲学は競争するのではなく、異なる層で協力すべき関係に近いのです。

ではどう生きるべきか

長い議論を通り抜けると、一つの実践的な問いが自然に浮かびます。このすべての不確実性の中で、私たちはいったいどんな態度で生きていけばよいのでしょうか。ここで興味深いのは、三つの立場のどれを受け入れても、日常の生活がただちに崩れるわけではないという事実です。

強い決定論を真剣に受け入れた人も、依然として朝に起きて計画を立て、愛する人を大切にし、不当さに怒ります。ただ彼は、過ちを犯した人を憎むよりも理解しようと努め、自分の失敗について自責に沈むよりも原因を見ようとするかもしれません。両立可能論者は責任と自由をともに保ちながら、しかし一人の背景と境遇をくみ取る寛容さも併せ持とうとします。リバタリアンは、一瞬一瞬の選択が本当に重要だという重みを抱えて生きていきます。

興味深いことに、この三つの態度は互いに排他的というより、一人の中で状況に応じて代わる代わる現れることがあります。私たちは他人の過ちの前ではその事情をくみ取る決定論者になり、自分の怠惰の前ではもっと奮起できると信じるリバタリアンにもなります。もしかすると成熟した人生とは、どれか一つの立場を教条のように握りしめることではなく、この複数の観点を賢く行き来しながら自分と他人をより深く理解することなのかもしれません。哲学が私たちに与える贈り物は、正解ではなく、まさにこの柔軟で寛容なまなざしなのでしょう。

短い年表で見る論争の流れ

以下は自由意志論争の大きな筋を、ごく粗く圧縮した流れです。正確な年代よりも、思考の順序を感じる助けになるよう単純化してあります。

古代 運命と必然をめぐる問いが神話と哲学に現れる

中世 神の予知と人間の自由意志が両立するかをめぐって激しい論争

近代初期 古典物理学の成功とともに因果的決定論の描像が鮮明になる

十八世紀 ヒュームをはじめとする思想家が両立可能論の古典的枠組みを磨く

十九世紀 ラプラスの悪魔に象徴される完全な決定論的世界像が定着

二十世紀初頭 量子力学の登場でミクロの世界の非決定性が浮かび上がる

一九八〇年代 リベットが準備電位実験で意識と行為の順序を問題にする

二〇〇〇年代 機能的脳画像研究が選択の事前予測の可能性を報告

最近 準備電位の再解釈と実験の限界への批判が活発になる

この流れが示すように、同じ問いが時代ごとに違う衣をまとって戻ってきます。神話の運命は神学の予知になり、再び物理学の因果となり、今日では神経科学の準備電位へと姿を変えて私たちの前に再び立つのです。

ちょっとクイズ あなたの直観はどちら寄りか

気軽に解いてみてください。正解を当てる試験ではなく、自分の直観を点検する鏡のようなものです。

問題一。次のうち両立可能論の核心の主張を最もよく表しているのはどれでしょうか。

- ア。決定論が真なら自由意志は存在しえない

- イ。宇宙が因果的に決定されていても、人は意味のある自由と責任を持ちうる

- ウ。自由意志のためには量子力学的な偶然が必ず必要である

- エ。すべての選択は純然たる偶然の結果である

問題二。リベットの準備電位実験への批判として適切でないものはどれでしょうか。

- ア。意識の時点を時計で自己報告させる方式が不正確でありうる

- イ。準備電位が決定信号ではなく揺らぐ背景活動の蓄積でありうる

- ウ。指をぴくりと動かす動作が熟慮を経た選択を代表しにくい

- エ。この実験は自由意志が幻想であることを完全に証明した

問題三。リバタリアン的自由意志が直面する運による反論の核心は何でしょうか。

- ア。自由な選択は必ず神の予知と衝突する

- イ。因果によって決定されない選択は偶然に委ねられたように見え、責任の根拠が揺らぐ

- ウ。決定論が真ならどんな選択も不可能である

- エ。脳活動が意識より常に先立つ

問題四。カオス理論が自由意志の論争に与える教訓として最も適切なのはどれでしょうか。

- ア。予測不可能であることは非決定論を証明する

- イ。予測不可能であることと非決定性は別の問題なので、行動を予測しにくいという事実だけで自由意志を立証することはできない

- ウ。カオス系には自然法則が適用されない

- エ。蝶の羽ばたきは必ず台風を引き起こす

正解は文章のいちばん最後に記しておきました。まず自分で選んでみてから確認してください。

おわりに 答えではなくより良い問いのために

ここまで私たちは決定論、両立可能論、リバタリアン的自由意志という三つの風景を経て、リベット実験とその批判、そして道徳的責任という最も熱い谷を通り抜けてきました。もう一度強調しますが、この文章はどの立場が正しいと宣言することはしません。そうするには、それぞれの立場があまりに強力な根拠とあまりに真剣な弱点を同時に抱えているからです。

むしろこの旅から手にできるのは、より鮮明になった問いの数々です。自由であるとは正確に何を意味するのか。別のようにもできたことは責任に本当に欠かせない条件なのか。科学が心についてますます多くを明らかにするとき、私たちは責任と尊厳という概念をどう磨いていけばよいのか。最初に上げてみたあの手、何の理由もなく上げて下ろしたあの手は、よく見ればこのすべての問いが凝縮された小さな宇宙だったわけです。

良い哲学は、私たちに正解を握らせるよりも、私たちが何を問うていたのかをより鮮明に見せてくれます。自由意志の問題はまさにその意味で、数千年を経た今もなお、私たちを立ち止まらせ再び考えさせる、最も魅力的な問いの一つとして残っています。

一行で残すまとめ

長かった旅を一行に圧縮するなら、こう言えるでしょう。自由意志の問題の核心は、宇宙が決定されているか否かではなく、その事実の上で私たちが自由と責任という言葉で何を意味し、また何を守りたいのかにあるということです。決定論は世界の織りなしを語り、両立可能論はその中でも責任が生き残る道を探し、リバタリアンは本当に開かれた未来を渇望します。三つの声は互いに争いますが、その争いそのものが、人間が自分の自由をどれほど真剣に考えているかを示す証拠でもあるのです。

考えるための種

- もし未来を完璧に予測できる機械が実際に存在したら、その事実を知るだけであなたの選択は変わるでしょうか。変わるなら、その変化は決定論とどう折り合うでしょうか。

- ある人が不遇な環境のせいで過ちを犯したとしましょう。その人の責任は減るでしょうか。減るなら、どこまで、何を根拠に減るのでしょうか。

- 自由意志が幻想だと本気で信じるなら、あなたは人への接し方を変えるでしょうか。それともあまり変わらないでしょうか。その答えはあなたについて何を語るでしょうか。

- 同じ過去を複製した二つの宇宙であなたが別の選択をするなら、その違いを何と呼びたいでしょうか。自由でしょうか、偶然でしょうか、それともどちらでもない第三の何かでしょうか。

- 人工知能が人間のように迷い選択する姿を見たら、あなたはそのシステムに責任を問えると感じるでしょうか。その直観の根拠は何でしょうか。

クイズの正解

- 問題一の正解はイです。両立可能論は決定論と自由意志が両立しうると見ます。

- 問題二の正解はエです。リベット実験は興味深い手がかりを与えたにすぎず、自由意志が幻想であることを証明したと見るのは難しいのです。

- 問題三の正解はイです。運による反論は、因果に決定されない選択が偶然のように見え責任の根拠が揺らぐという批判です。

- 問題四の正解はイです。混沌の教訓は、予測不可能であることと非決定性が別の問題だという点です。

参考資料

- Stanford Encyclopedia of Philosophy, Free Will, https://plato.stanford.edu/entries/freewill/

- Stanford Encyclopedia of Philosophy, Compatibilism, https://plato.stanford.edu/entries/compatibilism/

- Stanford Encyclopedia of Philosophy, Causal Determinism, https://plato.stanford.edu/entries/determinism-causal/

- Stanford Encyclopedia of Philosophy, Arguments for Incompatibilism, https://plato.stanford.edu/entries/incompatibilism-arguments/

- Encyclopaedia Britannica, Free will, https://www.britannica.com/topic/free-will

- Soon C. S. et al., Unconscious determinants of free decisions in the human brain, Nature Neuroscience, https://www.nature.com/articles/nn.2112

- Stanford Encyclopedia of Philosophy, Free Will and Moral Responsibility, https://plato.stanford.edu/entries/moral-responsibility/

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