はじめに — 火星人が攻めてきた夜
1938年10月30日の夕方、アメリカ東部のラジオからある放送が流れました。ありふれたダンス音楽が流れていたところに、突然、緊急速報が割り込みます。「火星から正体不明の物体が落下しました」。続いて記者が、現場から異星生命体の侵攻を生々しく伝えます。オーソン・ウェルズが演出したラジオドラマ「宇宙戦争」の一場面でした。
この放送が実際にどれほど大きなパニックを引き起こしたのかは、今日の歴史家のあいだでも議論の的です。当時の新聞は「ラジオの聴取者がパニックに陥った」と大きく報じましたが、後代の研究者は、そのパニックの規模がかなり誇張された可能性を指摘しています。興味深いのはここです。偽の侵攻をめぐる物語さえも、事実より刺激的な形で伝えられ、もう一つの膨らんだ語りになっていったのです。
この一編のエピソードは、これから扱う主題を凝縮して示しています。情報はどのように作られ、どのように人の心を動かし、どのように再び歪められて広がるのか。そして「事実」が何であるかを見分ける作業が、なぜこれほど難しいのか。今日は、フェイクニュースとポスト真実の風景の中へ歩み入ってみたいと思います。
一つの問いから始めましょう。あなたはこの一週間で見たニュースのうち、いくつを「事実」だと自信をもって言えますか。そしてその確信はどこから来たのでしょう。自分で検証したからでしょうか、それともただ信頼できそうに見えたからでしょうか。
この文章は誰が嘘つきかを暴くためのものではありません。特定の陣営や人物を狙うためのものでは、なおさらありません。それよりも、偽の情報が作られ、広がり、信じられていく普遍的な構造を、そしてその前で私たちの心がどのように働くのかを、静かに見つめようとする試みです。偽りにもっとも弱いのは、「自分は絶対にだまされない」と信じている人かもしれません。ですからこの文章を読むあいだだけは、疑いの矢をしばらく私たち自身へと向けてみることをお勧めします。
第一歩 —「ポスト真実」という言葉の登場
2016年、オックスフォード辞典はその年の言葉として「ポスト真実(post-truth)」を選びました。オックスフォードの定義によれば、ポスト真実とは「客観的な事実よりも、感情や個人的信念への訴えのほうが世論形成に大きな影響を与える状況」を指します。
ここで接頭辞「ポスト(post)」は、単に「真実のあと」を意味するのではありません。真実が消えたという意味でもありません。むしろ、真実がもはや議論の中心に立てず、二次的な場所へ押しやられた状態を指します。事実かどうかよりも、「それは自分の感情に合うか」「自分の属する集団の信念と一致するか」が先に問われる時代、ということです。
もちろん、嘘やプロパガンダが人類の歴史に初めて登場したわけではありません。古代ローマの政敵への中傷、中世の魔女狩りをあおった噂、戦時のプロパガンダまで、人間はつねに情報を武器としてきました。ただ変わったのは、速度と規模、そして到達範囲です。印刷機が宗教改革のパンフレットを運んだように、今日のソーシャルメディアは一行の嘘を数時間で何百万人にも届けます。
興味深いのは、「ポスト真実」という言葉がその年の言葉に選ばれたこと自体が、一つの信号だったという事実です。ある言葉が時代の言葉に選ばれるということは、その現象がようやく多くの人の共有する経験になったことを意味します。言いかえれば、2016年のあの選定は、偽りがそのとき初めて生まれたという意味ではなく、私たちがその問題をようやくはっきりと意識し始めたという信号に近いのです。名前をつけるということは、問題を直視する第一歩でもあるのですから。
ですから「ポスト真実」は、突然降ってきた災厄というより、古くからある人間の弱点が新しい技術と出会って増幅された結果に近いのです。この点を理解すれば、私たちは誰かを安易に悪者に仕立てる代わりに、構造を見つめることができるようになります。
ちょっと待って、「真実」とはそもそも何か
ポスト真実を語るには、その前に置かれた「真実」という言葉から、しばらく見つめておく必要があります。哲学では「真実とは何か」をめぐって、長らくさまざまな立場が競い合ってきました。もっとも直観的な見解は「対応説」と呼ばれます。ある言葉が真実であるのは、それが世界の実際の姿と合致するからだ、というものです。「雨が降る」という言葉は、本当に雨が降るときに真です。
ここに挑む見解もいくつかあります。ある人々は、真実が社会的合意や有用性により近いと見て、また別の人々は、私たちが世界をつねに何らかの観点を通してしか見ないという点を強調します。こうした議論は、ともすると「では真実なんてものは存在しないのではないか」という虚無主義へとすべり落ちやすいものです。
けれども、ここで一つ明確にしておく必要があります。真実の本性をめぐって哲学的に論争することと、「事実がそもそも存在しない」と主張することは、まったく別のことです。地球が丸いということ、ある出来事が特定の日に起きたということは、私たちがそれをどう解釈しようと変わらない事実に属します。ポスト真実の本当の危険は、真実が複雑であることにあるのではなく、その複雑さを口実にして「どうせ何もかも同じように疑わしい」とすべての事実を平らにならしてしまう態度にあります。健全な懐疑と冷笑的なニヒリズムを分かつ線は、まさにこの地点に引かれます。
中心概念 — 偽の情報にも種類がある
私たちはしばしば、あらゆる誤った情報をひとくくりに「フェイクニュース」と呼びます。けれども、情報の誤りを研究する学者たちは、もう少し精緻な区別を提案します。イギリスの研究団体ファースト・ドラフト(First Draft)のクレア・ウォードル(Claire Wardle)が整理した分類が広く引用されますが、その核心は「情報が誤っているか」と「害を与える意図があるか」という二つの軸です。
この二つの軸を交差させると、三つの大きな範疇が現れます。
第一に、誤情報(misinformation)です。内容は誤っているが、害を与える意図はない場合です。たとえば、ある人が誤った健康知識を本気で信じ、善意で友人に伝えたなら、それは誤情報です。偽りではあっても悪意はありません。
第二に、偽情報(disinformation)です。内容も誤っており、害を与えたり欺いたりする意図もある場合です。誰かを貶めたり、世論を操作したり、利益を得るために意図的に作られた偽りがここに属します。組織的なプロパガンダ工作が代表的です。
第三に、悪意情報(malinformation)です。内容そのものは事実でありうるが、害を与えるために文脈をねじ曲げたり、私的な情報を暴露したりする場合です。たとえば、実際にやり取りされた私的な会話を悪意をもって公開し、誰かに恥をかかせる行為がそうです。事実だからといって、つねに無害とはかぎらないことを教えてくれます。
より細分化された七つの類型
ウォードルはさらに一歩進み、情報の攪乱の様相をより細かく分けます。次の表はその核心を整理したものです。
| 類型 | 説明 | 意図性 |
| --- | --- | --- |
| 風刺・パロディ | 害する意図はないが誤解を招きうるユーモア | 低 |
| 誤った結びつけ | 見出しと本文、画像が互いに合わない | 中 |
| 誤導する内容 | 物事を特定の方向へ導くよう情報を編集 | 中 |
| 誤った文脈 | 本物の内容を見当違いの文脈にあてはめる | 中 |
| なりすまし | 本物の出所であるかのように装う | 高 |
| 加工された内容 | 本物の情報や画像に手を加えて歪める | 高 |
| ねつ造された内容 | 最初から最後まで偽りで作り上げる | 高 |
この分類が重要なのは、すべての偽の情報を同じように扱えないからです。友人が善意で広めた誤った知識と、誰かを崩そうと精巧にねつ造された映像とを、同じ重さで評価することはできません。対応の仕方も、責任の度合いも異なるべきです。
噂はどう育つか
偽の情報のもっとも古い形は、口から口へと伝えられる噂です。20世紀半ばのある心理学研究は、噂が人々のあいだを経るうちにどう変形するかを調べ、そこから三つの興味深い傾向を突き止めました。
第一は「平準化」です。話は伝わるほどに細部が削ぎ落とされ、しだいに短く単純になっていきます。
第二は「強調」です。残った細部のうち、印象的ないくつかが際立ち、物語全体の重心がそちらへ寄っていきます。
第三は「同化」です。話が、聞き手のもともとの期待や偏見に合うように、少しずつ整えられていきます。人は、自分が聞きたい形に話を覚え、また伝えるのです。
この三つの傾向を並べて見れば、噂とは単に「事実が不正確に伝えられたもの」ではなく、伝える人々の心を一つひとつ盛りつけていく器であることがわかります。今日のソーシャルメディアで一行の文が共有を重ねるうちに変形していく姿も、本質的にはこの古い噂の文法に似ています。媒体は変わっても、人の心の働き方は大きく変わっていないわけです。
深く入る 1 — なぜ私たちは偽りに惹かれるのか
フェイクニュースを論じるとき、しばしば「誰が偽りを作るのか」に注目します。けれども、より居心地が悪く、より本質的な問いは「なぜ私たちはそれを信じ、広めるのか」です。偽りが広がることには、作る人と同じくらい、受け取り、また伝える私たちみなの分があります。
確証バイアスという心の習慣
心理学で長く研究されてきた概念に「確証バイアス(confirmation bias)」があります。人は、自分がすでに信じていることを裏づける情報は容易に受け入れ、それに反する情報は厳しく疑ったり、いっそ目をそらしたりする傾向があります。
考えてみれば、これは心の怠惰というより、一種の効率戦略です。世のすべての情報を毎回一から検証するなら、私たちは一歩も進めないでしょう。だから脳は近道を選びます。ただ、この近道が偽の情報に出会うと、私たちは聞きたい偽りを選んで信じてしまうのです。
賢い人ほど安全とはかぎらない
興味深いことに、賢い人ほどこの落とし穴から安全だというわけではありません。むしろ知識や論理力に秀でた人は、自分がすでに下した結論を正当化する、もっともらしい根拠をより巧みに作り上げてしまいがちです。ある研究者たちはこれを指して、推論の能力が真実を探すより、自分の立場を弁護するために使われることもある、と表現します。すなわち批判的思考力は諸刃の剣です。それが自分自身の信念へ向かうとき、はじめて偽りを濾し取る盾となり、もっぱら他人の主張だけを狙うときには、偏りをいっそう固める武器となります。
エコーチェンバーとフィルターバブル
確証バイアスは一人だけのことではありません。似た考えを持つ人が集まると、互いの信念をこだまのように響き返し合う空間が生まれます。これを「エコーチェンバー」、すなわち反響室と呼びます。同じ声だけが響く部屋の中では、自分の考えがますます正しく感じられます。反対の意見は聞こえないか、聞こえても敵の声としてしか認識されません。
ここにアルゴリズムが加わります。アメリカの活動家イーライ・パリサー(Eli Pariser)は、2011年ごろに「フィルターバブル(filter bubble)」という概念を示しました。推薦アルゴリズムが私たちの好みそうなものだけを選んで見せることで、私たちは知らぬ間に情報の泡に閉じ込められる、というのです。ただ、学界ではフィルターバブルの効果が実際にどれほど強いのかをめぐって見解が分かれています。ある研究は、その影響が通念ほど大きくない可能性を指摘します。ですからアルゴリズムを唯一の犯人と名指しするより、人間の傾向と技術がかみ合った現象として理解するほうが正確です。
偽りのほうが速く走る理由
2018年、学術誌サイエンス(Science)に興味深い研究が掲載されました。マサチューセッツ工科大学の研究陣は、あるソーシャルメディアでの数年分の情報拡散を分析した結果、偽の情報が事実よりも遠く、速く、広く広がる傾向を示したと報告しました。研究陣はその理由として、偽の情報がしばしばより新しく驚きに満ち、怒りや恐れといった強い感情を刺激するためかもしれないと分析しました。
この結果は私たちに重い問いを残します。もし偽りが本質的により「面白く刺激的」なら、真実はつねに不利な試合を戦っていることになります。落ち着いていて複雑で、留保の多い真実は、単純で鮮やかで衝撃的な偽りの前にしばしば押しのけられます。
真実の効果と偽りの効果、ひと目で比べる
偽りが速く広がる理由を、真実と並べて見比べてみると、その非対称がはっきりと浮かび上がります。次の表は、情報が人の心をつかむ要素を単純化して整理したものです。もちろん、すべての真実が退屈で、すべての偽りが刺激的なわけではありませんが、平均的な傾向を押さえてみるための比較です。
| 要素 | 刺激的な偽りがよく持つ性質 | 落ち着いた真実がよく持つ性質 |
| --- | --- | --- |
| 新しさ | 初めて聞く衝撃的な内容 | すでに知られた、あるいは予想できる内容 |
| 感情 | 怒り、恐怖、痛快さを強く刺激 | 感情の振れ幅が比較的小さい |
| 単純さ | 一行に要約される鮮やかな結論 | 条件や留保が多く複雑 |
| 共有の欲求 | すぐ誰かに知らせたくなる | 共有の動機が弱いほう |
| 検証の費用 | 信じやすく、別途確かめない | 正確に理解するには手間がかかる |
この表が告げることは明らかです。私たちが真実から目をそらすから偽りが勝つのではなく、偽りが私たちの本能的な弱点をより巧みに突くから先んじるのです。ですから偽りに立ち向かう第一歩は、他人を責める前に、自分の心がどんな餌に弱いのかを知ることにあります。
反復はどう信念になるのか
心理学には、「単純接触効果」に近い「真実性の錯覚効果(illusory truth effect)」と呼ばれる現象があります。同じ主張を何度も繰り返し聞くと、それが事実であろうとなかろうと、しだいに事実のように感じられてくる、というのです。なじみが信頼に化けるわけです。
この現象が恐ろしいのは、私たちがある言葉を初めて聞いたとき「これは偽りだ」とはっきり判断していたとしても、同じ言葉に繰り返し出会ううちに、その境界がぼやけてしまいうるからです。偽の情報を広める側が同じメッセージをしつこく繰り返すことの背景には、こうした心理が横たわっています。ですから「どこかで聞いたことがある気がする」という感覚は、じつのところ、真偽を見分ける基準とするにはもっとも危険な感覚の一つなのです。
深く入る 2 — ディープフェイク、見るものをもう信じられないとき
長いあいだ人類は「百聞は一見に如かず」と信じてきました。写真や映像は言葉より強力な証拠でした。けれども人工知能技術の発展は、この古い信念にひびを入れます。
ディープフェイク(deepfake)は「ディープラーニング(deep learning)」と「フェイク(fake)」を合わせた言葉で、人工知能を用いて実物のように見える偽の映像や音声を作り出す技術を指します。ある人の顔を別の映像に合成したり、誰かの声をまねて、言っていないことを言わせたりすることが、ますます容易になっています。
技術そのものは価値中立です。映画制作、教育資料、世を去った芸術家の声の復元のように、意味のある用途も多くあります。問題は悪用です。政治家が言っていない発言をしたかのように仕立てたり、ふつうの個人を同意なしに偽の映像に合成したりすることは、深刻な被害を生みます。
ディープフェイクが文字による偽りと異なるのは、それが私たちのもっとも原初的な感覚を狙うという点にあります。私たちは文字は疑っても、両の目で見た光景はなかなか疑えません。「見たものを信じる」という本能は、人類が長い歳月をかけて磨いてきた生存の知恵でしたが、いまやその知恵が逆に弱点になってしまったわけです。ですからディープフェイク時代のメディアリテラシーは、文字を読む能力を超えて、「見ることさえ疑える」という新しい感覚を求めます。
より深い脅威は、おそらく「嘘つきの配当(liar's dividend)」と呼ばれる現象かもしれません。偽の映像がありふれてくると、本物の映像さえ「あれはディープフェイクだ」と否定できるようになります。真実を偽造する能力より、真実を否定する口実を誰にでも握らせることのほうが危険でありうる、という意味です。証拠が揺らげば、共有された現実の土台そのものが揺らぎます。
偽造と検知の終わりなき競走
ディープフェイクをめぐる風景は、しばしば矛と盾の競走にたとえられます。一方ではより本物らしい偽物を作る技術が発展し、もう一方ではその偽物を見分ける検知技術が後を追います。不自然なまばたきや光の向き、音声の微細な揺れといった手がかりを分析して偽造をとらえようとする研究が続いています。
問題は、この競走で作る側がしばしば一歩先んじるという点にあります。検知技術がある弱点をとらえると、偽造技術はすぐにその弱点を埋めるように進化します。ですから多くの専門家は、技術的な検知だけでは限界が明らかだと口をそろえます。映像の出所を最初から記録しておく「コンテンツの来歴証明」や、本物の資料にデジタル署名を残す方式のように、偽物をとらえるより本物を証明する方向の努力が、あわせて議論される理由です。
技術的な解法がどこまで進もうと、結局、最後の盾は見る人の慎重さです。衝撃的な映像を見たとき、すぐに反応する前に、「これは誰が、いつ、どこで最初に投稿したのか」と問う一拍の余裕が、何よりも頼もしい防御幕になります。
疑いと信頼、その微妙な均衡
ここで一つの均衡を見失ってはなりません。ディープフェイクを警戒するあまり、あらゆる映像を偽物だと疑い始めると、私たちは先に述べた「嘘つきの配当」の罠に自ら陥ることになります。本物の証拠さえ「どうせ加工できるじゃないか」と退ける瞬間、偽りを作る側がかえって勝つわけです。
ですから目標は、すべてを疑うことではなく、疑うべきところと信頼すべきところを見分けることです。出所がはっきりし、複数の信頼できる場所であわせて確認される資料は慎重に信頼し、出所が不明で感情ばかりを刺激する資料はもう一度立ち止まって吟味すること。この均衡感覚こそ、ディープフェイク時代を生きる私たちにもっとも必要な徳目かもしれません。
深く入る 3 — ファクトチェック、そしてその限界
偽りに立ち向かうために登場した代表的な制度がファクトチェック(fact-checking)です。報道機関や独立した機構は、出回る主張を検証し、「事実」「半分の事実」「偽り」などと判定します。アメリカのポインター研究所(Poynter Institute)が運営する国際ファクトチェックネットワーク(IFCN)は、世界中のファクトチェック機関の共通の倫理綱領を整えてもいます。
ファクトチェックは明らかに価値ある作業です。けれども万能ではありません。その限界を正直に見つめることが、かえってファクトチェックを健全にします。限界を隠す検証はもう一つの権威になってしまいますが、限界を認める検証は、読者とともに真実を探していく同伴者になります。
第一に、速度の問題です。一つの主張を丁寧に検証するには時間がかかります。そのあいだに偽りはすでに何十万回も共有されています。真実が靴を履いているうちに、偽りは地球を半周するという古い格言が思い浮かぶところです。
第二に、到達の問題です。ファクトチェックの結果は、しばしば、そもそもその偽りを信じなかった人にしか届きません。偽りを固く信じる人は、訂正報道さえ「彼らは真実を隠そうとしている」というもう一つの証拠として受け取ることもあります。
第三に、逆効果(backfire effect)をめぐる論争です。かつて「誤りを正すとかえって信念が強まる」という主張が注目されましたが、その後の複数の研究は、この効果が思ったほど一般的でも強くもない可能性を報告しました。つまり、訂正はおおむね役立つが万能の解決ではない、という抑制された結論のほうが正確です。
第四に、判定そのものの難しさです。明白な事実と明白な偽りのあいだには、広いグレーゾーンがあります。文脈、解釈、価値判断が絡む事案では、「何が事実か」を定めること自体が論争的です。誰が検証者を検証するのか、という古い問いもここで頭をもたげます。
こうした限界は、ファクトチェックが無用だという意味ではありません。ただ、ファクトチェック一つにすべての荷を負わせることはできず、個人の批判的思考とともに進むべきだ、ということを教えてくれます。
事実だけでは心は変わりにくい
ファクトチェックの限界をより深く見つめると、一つの居心地の悪い真実と向き合うことになります。人はなかなか事実だけでは心を変えない、ということです。私たちがある信念を抱きしめることには、単に「それが真だから」を超えた、いくつもの理由があります。
多くの信念は、私たちのアイデンティティと絡み合っています。自分の属する集団が共有する信念を疑うことは、単なる事実の修正ではなく、「自分はどこに属するのか」を揺さぶることのように感じられます。ですから、ある人にある主張を反論することは、本人も知らぬうちに、その人の帰属感を攻撃するものとして受け取られることもあります。
また、人は事実の一覧よりも物語にずっと容易に説得されます。よく練られた一つの物語は、散らばった統計の数十個より強く心に残ります。偽の情報がしばしば鮮やかな語りの衣をまとう理由が、ここにあります。
この点が私たちに告げることは逆説的です。偽りに立ち向かうには、より多くの事実を突きつけるだけでは足りないことが多い、ということです。ときには相手の立場をまず尊重し、共通の価値から出発し、事実をより良い物語の中に包んで伝えるとき、はじめて対話の扉が開きます。真実を伝えることは、情報の問題である以前に、信頼と関係の問題でもあるのです。
二つの思考実験 — 真実と偽りの境で
抽象的な議論をしばらく脇に置いて、二つの仮想の状況をいっしょに思い描いてみましょう。正解を当てるためではなく、私たちの中の直観を見つめるための思考実験です。
一つ目の状況です。ある情報がじつは偽りなのに、それを信じることで多くの人が慰めを受け、より親切になると仮定してみましょう。それでも私たちはその偽りを正すべきでしょうか。「無害な偽り」というものは本当に存在しうるのでしょうか。ある人は真実そのものに価値があると答えるでしょうし、また別の人は結果が良いならわざわざ揺さぶる必要はないと答えるでしょう。あなたの直観は、どちらに近いでしょうか。
二つ目の状況です。ある事実が明白に真であるのに、それが公開されると、無実の誰かが大きな被害を受けると仮定してみましょう。真実を語る権利と、害を与えない責任とが、正面からぶつかる瞬間です。先に見た「悪意情報」が、まさにこのグレーゾーンに位置します。事実だという理由だけで、あらゆる暴露が正当化されるわけではないとすれば、その境界はどこにあるのでしょうか。
この二つの問いに、きれいな正解はありません。けれども、こうした状況をあらかじめ頭の中で転がしてみることは、いざ現実で似た分かれ道に立ったとき、私たちが少しだけ慎重になる助けになります。真実を扱うことは、単に「真か偽か」を見分けるところで終わらず、「この真実を、いま、このように扱うことは正しいのか」というより深い問いへとつながるからです。
メディアリテラシー — みずから守る力
では、私たちには何ができるでしょう。ここで浮かぶ鍵言葉がメディアリテラシー(media literacy)、すなわちメディア文解力です。これは情報を単に受け入れるにとどまらず、それが誰によって、なぜ、どんな意図で作られたのかを読み取る能力を指します。
アメリカの非営利団体や図書館協会などは、情報に向き合ったときに投げかけられる簡単な点検の問いを提案してきました。その精神を整理すると、次のようになります。
[情報に向き合ったときの点検の流れ]
1. 止まる : 強い感情がわいたら、まず止まる。
怒りと興奮は共有ボタンを押させる。
2. 出所を見る : 誰が言ったのか。信頼できる場所か。
3. 根拠を探す : 原本の資料はあるか。リンクをたどってみる。
4. 突き合わせる : 別の信頼できる場所も同じことを言うか。
5. 文脈を見る : いつ、どこで、なぜ作られた情報か。
6. 疑う : 自分の考えと完璧すぎるほど合うなら、もっと疑う。
とりわけ最後の項目が重要です。私たちはしばしば、気に入らない情報だけを疑います。けれども本当の批判的思考は、自分が聞きたかった言葉ほどもう一度疑うところから始まります。自分自身に向けた懐疑こそ、もっとも難しく、もっとも価値ある能力です。
ここで一つ、よくある落とし穴を押さえておきたいと思います。風刺と本物の偽りを取り違える場合です。風刺やパロディは、本来、笑いと批判のための仕掛けであって、欺こうとする意図ではありません。問題は、こうした文章がもとの文脈から切り離されてさまよい出すときに生じます。誰かが冗談で書いた文章を、別の誰かが真面目な報道と誤解して広めてしまうのです。ですから、ある情報に向き合ったとき「これはそもそも真剣な主張として書かれたのか、それとも風刺だったのか」を推し量ることも、メディア文解力の一部です。同じ文も、どんな意図と文脈に置かれるかによって、まったく違う重みを帯びるからです。
側面読みという技術
スタンフォード大学のある研究陣は、専門のファクトチェッカーが情報を検証する方法を観察した末に、興味深い習慣を発見しました。一般の読者が一つのウェブページにとどまり、その中で信頼性を判断しようと努める一方で、熟練した検証者はただちにそのページを離れ、別のタブを開き、外側の複数の出所を通じてその出所そのものを評価したのです。これを「側面読み(lateral reading)」と呼びます。
たとえるなら、見知らぬ店に入り、その店の看板だけを見つめて信じるかどうか悩む代わりに、いったん外に出て近所の人にその店の評判を尋ねることです。情報の信頼性は、その情報の内側ではなく、それを取り巻くより広い文脈の中でこそ、よりよく現れるものです。
この小さな習慣一つが、意外なほど大きな違いを生みます。よく作り込まれた偽のウェブサイトは、その中だけを見れば、この上なくもっともらしく見えます。洗練されたデザイン、専門家のように見える名前、それらしい引用まで備えているのですから。けれども、そのページをしばらく離れて、外側からその出所を検索してみると、その正体はずっとはっきりと現れてきます。側面読みが強力なのは、偽りがもっとも念入りに飾り立てるところ、すなわち自分自身についての紹介を、そのまま信じずに迂回するからです。
前もって打つワクチン — 接種理論
偽りに立ち向かうもう一つの興味深い接近法に「接種理論(inoculation theory)」があります。1960年代に心理学者ウィリアム・マクガイア(William McGuire)が提唱したこの発想は、私たちの体が弱い病原体にあらかじめ触れて免疫を養うように、私たちの心も偽りの小さな見本とその働きの仕組みにあらかじめ触れておけば、本物の偽りに出会ったとき、より持ちこたえられる、というものです。
核心は、特定の偽りを一つひとつ反論するところにあるのではありません。それよりも「こういう手口がある」という手法そのものを、あらかじめ知らせるところにあります。たとえば、偽の専門家を持ち出す手口、無関係な統計をもっともらしくあてはめる手口、二つの選択肢しかないかのように追い込む手口を、あらかじめ学んでおけば、のちにそのパターンに出会ったとき「ああ、これはあの手口だ」と気づきやすくなります。偽りの内容ではなく、偽りの文法を教えるわけです。
この接近法が魅力的なのは、訂正報道がしばしば突き当たる限界をかわすからです。すでに信じてしまった偽りを覆すのは難しいけれど、まだ出会っていない偽りに備えさせることは、比較的たやすいのです。もちろん、すべての偽りをあらかじめ予測して接種することはできない、という限界もはっきりあります。それでも「事後の反論」と「事前の備え」をあわせて持つという発想は、偽りに立ち向かう私たちの道具箱を一段と広げてくれます。
一枚の写真が生んだ誤解 — 文脈がすべてのとき
偽の情報が、つねに真っ赤なねつ造から生じるわけではありません。ときには本物の写真や本物の映像が、見当違いの文脈に置かれるだけで、強力な偽りになります。たとえば、ある災害現場の古い写真が、まったく別の時点と場所の出来事であるかのように再び広がることは、珍しくありません。写真そのものは加工されていないので「偽物」と呼ぶのは曖昧ですが、それが伝えるメッセージは明らかな誤導です。
これが先に見たウォードルの分類でいう「誤った文脈」に当たります。そしてまさにこの地点で、画像検索や原本追跡といった道具が光を放ちます。ある写真を初めて見た瞬間に「この光景は本当にいま、ここの出来事だろうか」と問い、その出所と時点をさかのぼってみる小さな習慣が、数えきれない誤解をあらかじめ防いでくれます。本物と偽物を分かつ境界が、コンテンツそのものより、それが置かれた文脈にかかっている場合が、意外なほど多いのです。
さまざまな視線 — 表現の自由と規制のあいだ
ここで私たちは、もっとも厄介な分かれ道に立ちます。偽の情報が有害なら、社会はそれを規制すべきでしょうか。それとも表現の自由というより大きな価値のために、偽りさえ耐えるべきでしょうか。この問いには簡単な正解がありません。真剣に悩む双方の声を、どちらも聞いてみる必要があります。
規制に重きを置く視線
一方では、こう言います。偽の情報は単なる意見の問題ではなく、実際の被害を生む、と。誤った健康情報は生命を脅かしうるし、操作された扇動は社会の混乱や暴力につながりうる。個人を標的にした虚偽の映像は、回復しがたい傷を残します。
この観点から見れば、巨大なプラットフォームが偽りの拡散を放置することは無責任です。たばこや食品に安全基準を置くように、情報環境にも一定の規則と透明性が必要だ、という主張です。欧州連合が整えたデジタルサービス法(Digital Services Act)のように、プラットフォームに危険な情報への一定の責任を問う制度的な流れも、こうした問題意識から生まれます。
この陣営はまた、「表現の自由」という言葉が、ときに責任を回避する盾として使われると指摘します。個人が街角で叫ぶひと言と、アルゴリズムが何百万人に自動で広めるひと言とでは、その影響力の大きさがまったく異なります。であれば、前例のない拡散力を持つ巨大プラットフォームには、それに見合った前例のない責任が伴うべきではないか、というのです。自由には本来、責任が対をなすという古い原則を、新しい技術環境に合わせて改めて問うわけです。
表現の自由に重きを置く視線
もう一方では、懸念が示されます。誰が何を「偽り」と判定する権限を持つのか。歴史を振り返れば、権力者はしばしば「偽の情報の取り締まり」という名目で、批判や反対を抑え込んできました。今日の定説が、明日は覆ることもあります。科学の歴史は、かつて「偽り」とされながら、のちに正しいと判明した主張で満ちています。
この観点から見れば、偽りへの最善の解決は、さらなる偽りを禁じることではなく、より多くより良い発言で立ち向かうことです。アメリカの憲法の伝統でしばしば引用される「より多くの発言(more speech)」という原則がそれです。検閲の刃はひとたび手に握られると、結局もっとも弱い声に向けられる危険がある、という警告です。
この懸念には歴史の重みが乗っています。「有害な情報を防ぐ」という名目が、時代ごとに異なる顔で使われてきたからです。昨日の権力は、しばしば自分を批判する声を「混乱をあおる偽り」と規定して沈黙させました。そしてその判定の基準は、つねに判定する者に有利に引かれやすいものでした。だからこの陣営は問います。今日、私たちが偽りを取り締まる権限を誰かに握らせるなら、その権限がつねに善意でのみ使われると、どうして保証できるのか。もっとも恐ろしいのは、あからさまな偽りではなく、「真実を守る」という名目で振るわれる権力かもしれない、ということです。
二つの価値の緊張に向き合う
興味深いのは、双方ともより健全な公共圏を望んでいる、という点です。ただ、その道についての判断が異なります。一方は害を減らすには一定の介入が必要だと見て、もう一方は自由を守るには介入を最小限にすべきだと見ます。
現実の多くの社会は、この両極のあいだのどこかで均衡点を探そうと努めます。たとえば、明白に偽りで直接の害を与える情報は制限しつつ、意見と解釈の領域は幅広く保護する、という具合です。けれども、その境界線を正確にどこに引くかは、社会ごとに、時代ごとに異なる答えが出されてきました。唯一の定まった答えがないという事実そのものを受け入れることが、この論争を成熟して扱う第一歩なのかもしれません。
誰の責任か — 三つの層の役割
偽の情報の問題を語るとき、私たちはしばしば責任の矢を一つの場所へ向けたがります。「プラットフォームが問題だ」「教育が問題だ」「個人が怠けているせいだ」。けれども現実は、どれか一つへと還元されません。少なくとも三つの層が、互いにかみ合っています。
もっとも外側には、社会と制度の層があります。どんな規則を置くか、プラットフォームにどんな透明性を求めるか、公教育でメディア文解力をどう教えるか、といった問題です。真ん中には、プラットフォームと報道の層があります。何を推薦し、何を抑えるか、どんな情報に警告を付けるか、訂正はどれほど目立つように見せるか、といった設計の問題です。そしてもっとも内側には、個人の層があります。立ち止まって問い、出所を吟味し、共有ボタンの前で一拍止まる、日常の選択です。
この三つの層は、互いを口実にしやすいものです。個人は「自分に何ができる、システムが問題なのに」と言い、プラットフォームは「利用者の望むものを見せているだけ」と言い、制度は「表現の自由をむやみに触れられない」と言います。みな一理ありますが、みなが互いに責任を押しつけ合えば、何も変わりません。おそらくもっとも現実的な道は、それぞれの層が自分の場所でできる小さな分をともに引き受けることにあるのかもしれません。巨大な一打の解決を待つよりも、です。
禁止以外の道はないか
偽の情報への対応を「禁止するかしないか」の二分法だけで見ると、私たちはもっとも荒い二つの選択肢のあいだに閉じ込められてしまいます。けれども、そのあいだには、表現そのものを止めずに情報環境を健全にする、いくつもの中間地帯があります。いくつか見てみると、こうです。
一つは「文脈を添える」ことです。ある投稿を消す代わりに、その傍らに検証された背景情報や別の観点をあわせて見せる方式です。何を信じるかは依然として利用者が決めますが、判断に必要な材料をより豊かに提供するわけです。
もう一つは「摩擦を加える」ことです。出所の不明な文章を共有しようとするとき「本当に共有しますか」ともう一度問うたり、読んでいない記事を共有しようとすると、まず本文を勧めたりする、小さな立ち止まりの仕掛けです。強制ではありませんが、衝動的な拡散に、ひと呼吸置く隙を与えます。
さらにもう一つは「透明性を求める」ことです。ある情報がなぜ自分に推薦されたのか、どんな広告を誰が後援したのかを明らかにさせる方式です。情報を止める代わりに、その情報が流れる経路をのぞけるようにする接近法です。
もちろん、この中間地帯の方法も完璧ではなく、それぞれに副作用や論争の種を抱えています。ただ重要なのは、私たちの選択肢が「全面許容」と「全面禁止」の二つだけではない、という事実です。より精緻な道具を想像し、見比べてみることこそ、この難しい問題を成熟して扱うもう一つの方法です。
ちょっとクイズ — あなたの情報感覚を点検する
読んだ内容を整理がてら、軽いクイズをいっしょに解いてみましょう。答えはすぐ下にありますので、まず自分で考えてから確かめてください。
問題1。友人が誤った健康知識を本気で信じ、善意で共有しました。これは誤情報、偽情報、悪意情報のうち、どれでしょう。
問題2。ある内容は事実なのに、誰かに害を与えようと私的な会話を暴露した場合は、何と呼ぶでしょう。
問題3。「側面読み(lateral reading)」とは何を意味するでしょう。
問題4。偽の映像がありふれることで、本物の映像さえ「あれは偽だ」と否定するようになる現象を何と呼ぶでしょう。
問題5。表現の自由を重んじる側が、偽りに立ち向かう方法として示す原則は何でしょう。
正解です。
答1。誤情報(misinformation)です。内容は誤っていますが、害を与える意図がないからです。
答2。悪意情報(malinformation)です。内容そのものは事実でも、害を与える意図で用いたからです。
答3。一つのウェブページの中にとどまらず、そのページを離れて別の出所を通じ、その出所の信頼性を検証する方法です。
答4。嘘つきの配当(liar's dividend)です。
答5。「より多くの発言(more speech)」の原則、すなわち検閲の代わりに、より多くより良い発言で立ち向かうことです。
いくつ当たったでしょうか。間違えた問題があっても大丈夫です。大切なのは正解を覚えることではなく、情報に向き合うときにこうした問いを思い浮かべる習慣です。
情報攪乱の歴史を一望する
フェイクニュースが決して新しい現象ではないことを示す流れを、簡単な年表にまとめてみました。年と出来事は大きな流れを示すためのもので、細部は視点によって異なって解釈されうります。
[情報の攪乱と、それに抗う努力の大きな流れ]
15世紀 印刷機の登場。知識の大衆化と同時に、
パンフレットを通じたプロパガンダと中傷も
爆発的に増える。
1938年 ラジオドラマ「宇宙戦争」の放送。
メディアが大衆の認識に及ぼす力をめぐる
論争を残す。
20世紀 二度の世界大戦と冷戦期、国家規模の
プロパガンダが精巧な技術へと発展する。
2000年代 インターネットとソーシャルメディアの拡散。
誰もが情報を作り、広げる時代が開かれる。
2016年 オックスフォード辞典、その年の言葉として
「ポスト真実(post-truth)」を選ぶ。
2018年 偽の情報が事実より速く広がるという
大規模な分析研究が学術誌に発表される。
2020年代 生成系人工知能とディープフェイクの発展により、
「見ること」の信頼性さえ挑戦され始める。
この年表が教えるところは明らかです。技術が変わるたびに情報攪乱の形も変わってきたし、それに抗う人間の努力もまた、繰り返し新しくなってきたのです。私たちはこの長い物語の一章を生きているにすぎません。
日常で実践する小さな習慣
大げさな理論より大切なのは、情報に向き合うその瞬間ごとの小さな選択です。これまで見てきた内容を、日常ですぐに使えるよう、いくつかの習慣にまとめてみました。すべてを一度に守ろうと努めるより、気に入った一つから始めてみてもよいでしょう。
- 感情がまず込み上げたら、しばらく止まります。怒りや痛快さが大きいほど、その情報はもう一度疑ってみる価値があります。
- 共有ボタンを押す前に、出所を確かめます。誰が、いつ、どんな意図で作った情報かを問います。
- 見出しだけで判断しません。本文を最後まで読んでみると、見出しと違う内容のことが少なくありません。
- 同じ事案を扱う別の出所を、少なくとも一つは探してみます。一つの場所の言葉だけでは、絵が半分です。
- 衝撃的な写真や映像は、その出所と時点をさかのぼってみます。本物の資料が見当違いの文脈に置かれている場合がよくあります。
- 自分の考えとぴったり合う情報ほど、もう一度疑います。もっとも危険な偽りは、自分が信じたかった偽りです。
- 間違いに気づいたときは、静かに訂正します。誤りを認めることは弱さではなく、真実をより愛している証拠です。
これらの習慣に共通するのは、いずれも「一拍の余裕」を作るという点にあります。偽りが私たちの即座の反応を狙うなら、私たちのもっとも頼もしい盾は、まさにその即座さに小さな隙を入れることなのです。
おわりに — 揺らぐ時代を渡る方法
もう一度、最初の火星人の話に戻ってみます。1938年の聴取者は、ラジオという新しい媒体を前に、何がドラマで何が速報かを見定めるのが難しかったのです。今日の私たちも、似た境遇かもしれません。ただ、私たちの前にある媒体が、ラジオから無限に流れるフィードと精巧な人工知能の映像へと変わっただけです。
ポスト真実の時代を渡る道に、魔法のような一打はありません。偽りを一気に消す技術も、誰もを満足させる規制も存在しません。けれども私たちには、古い、それでもなお強力な道具があります。立ち止まって問い、出所を吟味し、突き合わせ、何より、自分が信じたいものに向かってさえ疑いのまなざしを引っ込めない、という態度です。
同時に、私たちは謙虚である必要があります。誰もすべての事実を自分で検証することはできません。私たちは結局、ある程度は他者や制度を信頼しながら生きています。ですから問題は「信頼するか、しないか」ではなく、「何を、どこまで、なぜ信頼するか」を見分けることです。
そして一つ、付け加えておきたいことがあります。偽の情報を警戒する心が過ぎると、ともすると何もかもを疑い、何も信じない冷笑へと固まってしまいかねない、という点です。けれどもそれはポスト真実の解毒剤ではなく、むしろもう一つの顔です。すべてを同じように疑う人は、結局もっとも大きな声や、もっとも刺激的な物語に流されやすいものです。健全な批判は、信じることを放棄するのではなく、より良い根拠を持つほうへ信を移せる柔軟さです。懐疑は到着点ではなく、より良い知へと向かう道の途中であるべきです。
最後に、いっしょに考えてみたい問いをいくつか残します。
第一に、私はどんな情報にもっとも容易に心を開くでしょう。そしてその情報は、私の既存の信念とどれほど似ているでしょう。
第二に、私が最近誰かに共有した情報を、私は本当に検証したでしょうか、それともただ信頼できそうに見えただけでしょうか。
第三に、表現の自由と偽の情報の規制のあいだで、私ならその境界線をどこに引くでしょう。そしてその判断の根拠は何でしょう。
第四に、もし私が固く信じてきた何かが事実でないと知ったなら、私は喜んで考えを変えられるでしょうか。その最後の瞬間に、何が私をためらわせるでしょうか。
第五に、私は偽りを見分ける力を、主に誰に向かって使っているでしょうか。自分の反対側の主張にばかり鋭く、自分の側の主張には寛大ではないでしょうか。
これらの問いに一度で答える必要はありません。ただ、こうした問いを抱いて生きること自体が、事実が揺らぐ時代を少しだけ確かに渡る方法ではないかと思います。真実はしばしば遅く複雑ですが、それでも最後には見いだす価値のある何かなのですから。
もしかすると、ポスト真実の時代が私たちに手渡す、逆説的な贈り物が一つあるかもしれません。何ごとも容易には信じられなくなった、まさにその居心地の悪さが、私たちにより深く問い、より慎重に判断するよう促す、ということです。真実がただで与えられた時代があったとすれば、いまや真実は、ともに探し出さなければならない何かになりました。そしてその骨の折れる旅は、一人より大勢でいっしょのときに、いっそう頼もしくなります。互いの盲点を照らし合い、異なる視線を分かち合い、間違えたときには喜んで直していく共同体こそ、揺らぐ時代を渡るもっとも古い橋なのでしょう。
ですから今日この文章を閉じたあと、次に衝撃的な知らせに出会ったなら、ほんの少しだけ立ち止まってほしいと思います。その短い立ち止まりの中で、一度問うのです。「これは本当に事実だろうか。私はなぜこれを信じたがるのだろうか」。その小さな問い一つが、事実が揺らぐ時代を渡る、私たち一人ひとりのもっとも確かな踏み石になってくれるはずです。
参考資料
- Oxford Languages, "Word of the Year 2016: post-truth": https://languages.oup.com/word-of-the-year/2016/
- Stanford Encyclopedia of Philosophy, "The Ethics of Belief": https://plato.stanford.edu/entries/ethics-belief/
- Vosoughi, Roy, and Aral, "The spread of true and false news online," Science (2018): https://www.science.org/doi/10.1126/science.aap9559
- Encyclopaedia Britannica, "fake news": https://www.britannica.com/topic/fake-news
- Poynter Institute, International Fact-Checking Network: https://www.poynter.org/ifcn/
- Reuters Institute, Digital News Report: https://reutersinstitute.politics.ox.ac.uk/digital-news-report
- Nature, research on misinformation and society: https://www.nature.com/articles/s41562-021-01056-1
- U.S. National Library of Medicine (NCBI), studies on misinformation: https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC7447862/
- Stanford Encyclopedia of Philosophy, "Truth": https://plato.stanford.edu/entries/truth/
- Encyclopaedia Britannica, "propaganda": https://www.britannica.com/topic/propaganda
- Reuters, fact check explainer and standards: https://www.reuters.com/fact-check/
- Stanford History Education Group, research on lateral reading and online reasoning: https://sheg.stanford.edu/
- Encyclopaedia Britannica, "deepfake": https://www.britannica.com/technology/deepfake
- Nieman Lab, reporting on misinformation and the news ecosystem: https://www.niemanlab.org/
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