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国家 — 正義とは何かという永遠の問い

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はじめに — ひとつの問いから始まる書

偉大な書物のなかには、壮大な宣言ではなく、ひとつの素朴な問いから始まるものがあります。プラトンの国家(Politeia)がまさにそうです。この膨大な哲学の大作は、意外にもごく単純な問いから出発します。正義とは何か。

この問いは今日の私たちにも馴染みのないものではありません。ニュースを見ていて、不公正な扱いを受けて、あるいは社会のある決定に憤りながら、私たちはしばしば問い返します。これは本当に正義なのか。何が正しく何が間違っているのか。

二千四百年前、アテネのひとりの哲学者もまったく同じ問いと格闘しました。

国家は対話篇です。ソクラテスという人物が幾人もの人と対話を交わしながら正義の本質を掘り下げていく形式で書かれています。

ところが話は、個人の徳としての正義から出発して、理想的な国家とは何か、魂はどう構成されるのか、私たちは何を真理と見なすべきかという巨大な問いへと広がっていきます。ひとつの種から巨大な木が育つように。

この文章では、国家の核心の概念をひとつずつ取り上げます。洞窟の比喩、イデア論、魂の三分説、そしてもっとも論争的な哲人政治まで。そして、この古い古典が現代の民主主義を生きる私たちに何を問うているのかをともに考えます。

ひとつ触れておきたいことがあります。国家という題の重みです。原題ポリテイアは、単に国家という機構を指す言葉ではなく、ひとつの共同体がみずからを組織し治める仕方の全体、すなわち政体、あるいは市民の生の様式を意味します。ですからこの本は、国家という硬い制度の設計図であるより先に、人々がどうともによき生を生きるかを問う書です。題が国家だからといって政治制度だけを扱うと考えると、この本が抱く広い地平を見落としやすくなります。正義、教育、芸術、魂、真理、幸福がひとつの場で出会うこの本は、題よりもはるかに大きな器なのです。

この文章の目的をあらかじめ明かしておくのがよいでしょう。国家は二千四百年のあいだ、熱烈な賛辞と辛辣な批判を同時に受けてきた書です。ある人はここに賢い統治の理想を見、ある人は自由を抑圧する全体主義の種を読み取りました。

この文章は、そのどちらか一方の側に立って読者を説得しようとはしません。かわりに複数の視点をできるだけ公平に並べて置き、それぞれの立場が何を根拠にしているのかを示そうと思います。

最終的な判断は、まったく読者の手にゆだねられます。偉大な古典を読む楽しみは、正解を書き取ることにあるのではなく、異なる声のあいだでみずから秤にかけてみることにあるからです。


プラトンとソクラテス — 師の死が生んだ哲学

国家を理解するには、まず二人の関係を知らねばなりません。プラトンとその師ソクラテスです。

ソクラテスは紀元前五世紀のアテネに生きた哲学者です。彼は一冊も本を書きませんでした。かわりにアテネの街や広場を歩きまわり、人々に絶えず問いを投げかけました。

正義とは何ですか。勇気とは何ですか。よき生とは何ですか。彼は人々が知っていると信じることを問いつめ、その知がじつはいかに浅いかを暴きました。

この執拗な問いは多くの人を不快にさせました。ついにソクラテスは若者を堕落させ神を冒涜したという罪状で裁判にかけられ、紀元前三九九年に毒杯をあおいで死にました。師の不当な死は、若きプラトンに深い傷を残しました。

この出来事がプラトン哲学の方向を決定づけました。正しい人が不正な多数の手によって処刑される都市、これは本当によき国家なのか。どうすればこのような悲劇が繰り返されない真の正義の共同体を作れるのか。

国家はある意味で、師の死へのプラトンの生涯をかけた応答でした。そして国家のなかのソクラテスは、実在の人物とプラトン自身の思想が混じり合った文学的な語り手として理解するのがよいでしょう。

ここでひとつ目を留めておきたいことがあります。プラトンがなぜ自分の思想を論文ではなく対話で書いたのか、という点です。国家をはじめとするプラトンの著作の大半は、幾人もの人物が問い、答える劇的な対話の形式をとります。これは単なる文体の好みではなく、哲学とは何かをめぐるプラトン自身の深い信念と結びついています。

師ソクラテスは、完成された知識を教壇から説く人ではありませんでした。彼は相手と向き合い、問い、問い返す問答をとおして、ともに真理へ近づいていく人でした。知とは誰かから完成品のように受け取るものではなく、対話のなかからみずから汲み上げねばならないものだという信念です。

プラトンが対話篇という形式を選んだのは、まさにこの師の方法を文字で受け継いだものと見ることができます。対話には反論が現れ、行きづまりにぶつかることもあり、ひとつの主張が別の主張によって鍛えられていきます。読者は完成された結論を受け取るかわりに、登場人物たちとともに思考の過程を歩むことになります。

ある意味でプラトンは、本を読む私たちさえも対話の座へと招いているのです。ですから国家を読むときには、ソクラテスの結論だけでなく、彼が相手の反論とどう格闘しながら思考を研ぎ澄ましていくのか、その過程そのものを味わうのがよいでしょう。


正義とは何か — 対話の出発点

国家の第一巻は興味深い論争で始まります。ソクラテスは幾人もの人と正義の定義をめぐって渡り合います。

ある者は、正義とは借りたものを返し、各人にふさわしいものを与えることだと言います。

ソクラテスはこの定義の穴を突きます。ならば、気が狂ってしまった友に預けた武器を返すのも正義なのか。規則を額面どおりに守ることがつねに正しいわけではないことを、彼はこの一言で示します。

もっとも激しい相手はトラシュマコスという人物です。彼は挑発的に宣言します。正義とは強者の利益にすぎないと。法とは結局、権力を握る者が自分の利益のために作ったものであり、正しく生きることは愚かで損をすることだというのです。

この冷笑的な主張は驚くほど現代的に聞こえます。力こそ正義だというこの挑戦にどう答えるか。これが国家全体を貫く課題となります。

ソクラテスはこの挑戦に正面から答えることにします。正しい生が不正な生よりもそれ自体でよく、幸福であることを証明しようとするのです。ところが彼が選んだ方法は独特です。個人の正義を直接論じるかわりに、まず正しい国家を想像してみようというのです。大きな文字を先に読めば小さな文字も読みやすくなるように、国家という大きな規模で正義を探せば、個人の正義もよりよく見えるだろうというのです。

ギュゲスの指輪 — 誰も見ていないなら

トラシュマコスが退いたあとも、挑戦は終わりません。第二巻でグラウコンという人物が、いっそう鋭い思考実験をたずさえて登場します。

彼はトラシュマコスの冷笑をより精緻に研ぎ、ソクラテスに本当に難しい課題を突きつけます。正義が本当にそれ自体でよいものなのか、それとも他人の目や評判のために仕方なく守っているだけなのかを証明せよ、というのです。

彼が持ち出したのが、まさにギュゲスの指輪の伝説です。むかしギュゲスという羊飼いが、偶然ひとつの不思議な指輪を手に入れます。その指輪を回すと体が透明になり、誰にも見えなくなります。自分を見られる者がひとりもいないと知ったギュゲスは、ついに王宮に入りこみ、王を殺して権力を奪います。

グラウコンはここで挑発的な問いを投げます。もしこのような指輪が二つあり、一つは正しい人に、一つは不正な人に与えられたなら、二人の行いは本当に違うでしょうか。

グラウコンの見立ては冷徹です。どんな罰も受けず、どんな視線も気にしなくてよいなら、正しい人でさえ結局は不正な人とまったく同じように振る舞うだろうというのです。

そうだとすれば、私たちが正義を守るのは正義がよいからではなく、露見するのが恐ろしく、評判を失うのが怖いからにすぎないという結論が続きます。正義とは損を引き受ける愚かさであり、不正こそ賢い利得だというわけです。

この思考実験は驚くほど長く生き延びました。今日でも私たちは似た問いを投げかけることがあります。誰も見ておらず、いかなる処罰もなく、評判に傷もつかないなら、あなたはなお正しく振る舞うでしょうか。

この問いに定まった正解はありません。ある人は、正義とは結局のところ外部の監視が生み出した規則にすぎないと答えるでしょうし、ある人は、それでも人には他人が見ていないときにも守りたい何かがあると答えるでしょう。

ソクラテスはこのあと自分の答えを差し出しますが、その答えに同意するにせよしないにせよ、この問いそのものは私たち各自の手に残されます。国家の残りのすべての議論は、ある意味でこの一つの挑戦に答えようとする長い旅だと言ってもよいのです。


正しい国家と魂の三分説

ソクラテスは理想的な国家を三つの階層に分けます。各階層はそれぞれ固有の役割を担います。

第一は生産者階層です。農夫、職人、商人のように、社会に必要な物資を作り供給する人々です。

第二は守護者階層、すなわち国を守る軍人たちです。

第三は統治者階層で、国家を治める賢い者たちです。

ここでソクラテスの核心的な洞察が現れます。正しい国家とは、この三つの階層がそれぞれ自分の役割を忠実に果たし、たがいに調和をなすときに実現されるというのです。

生産者が節制し、守護者が勇気を発揮し、統治者が知恵をもって全体を導くとき、国家は正しいのです。正義とはすなわち各人が自分の場でなすべきことをなすこと、調和と秩序だというのです。

ここであらかじめひとつの分かれ道を示しておくのがよいでしょう。この理想国家をどう読むべきかをめぐって、解釈は大きく二つに分かれます。

一方では、プラトンが実際にこのような国を建設すべきだと真剣に提案した政治の青写真として読みます。他方では、この国家は地上に立てよという設計図ではなく、正しい魂とはどのような姿かを大きな画面に映して見せるための思考実験だと読みます。

この二つの読み方は、後に出てくる哲人政治を評価するときにもまったく異なる結論へとつながります。どちらが正しいのかは、この文章では断定しません。ただ国家を読むあいだじゅう、この問いを心の片隅に抱いていれば、議論のきめが一段とくっきり見えてくるはずです。

魂の三つの部分

ところが国家の本当の妙味は、この国家の構造を個人の魂にそのまま対応させる点にあります。ソクラテスは、人間の魂もまた三つの部分からなると見ます。

第一は理性です。考え、判断し、真理を追求する部分で、国家の統治者に対応します。

第二は気概です。勇気や名誉心、怒りといった感情の部分で、国家の守護者に対応します。

第三は欲求です。食べ、飲み、所有しようとする本能的な欲望で、国家の生産者に対応します。

正しい人とは、この三つの部分が調和した人です。理性が賢く全体を導き、気概が理性を助け、欲求が節制されて自分の場を守るとき、魂は健やかで正しいのです。

逆に、欲求が理性を押しのけて魂を支配すれば、その人は不正で不幸になります。船で漕ぎ手が舵取りを押しのけて向きを勝手に定めようとすれば船が漂流するように、魂もまた内なる秩序が崩れれば行き先を見失います。

このたとえの美しさは、正義が単に外部の規則を守ることではなく、内面の秩序だという洞察にあります。トラシュマコスの冷笑へのソクラテスの答えがここにあります。正しい人は損をする人ではなく、魂が調和して治められ、真に幸福な人だというのです。

以下は国家と魂の対応を整理したものです

国家の階層    魂の部分     対応する徳     役割
-----------  ---------   -----------   --------------------
統治者        理性        知恵          全体を導く
守護者        気概        勇気          守り補助する
生産者        欲求        節制          作り供給する

洞窟の比喩 — 私たちは影を見ているのか

国家でもっとも有名で強烈な場面が、まさに洞窟の比喩です。西洋哲学史を通じてもっとも頻繁に引用されるイメージのひとつです。

こう想像してみましょう。暗い洞窟の奥深くに、人々が生まれたときから鎖につながれています。彼らは首を回すこともできず、ただ前の壁だけを見つめています。背後の遠くには火が燃え、火と囚人たちのあいだを何かが通ると、その影が壁に映ります。生涯影だけを見てきた囚人たちは、その影を世界のすべて、すなわち実在だと信じます。

ところがひとりが鎖から解かれます。彼は体を回して火の光を見ます。はじめは目がくらんで苦しみます。やがて洞窟の外へ出て、ついに太陽を見ます。

彼は悟ります。自分が生涯実在だと信じてきたものは影にすぎず、本当の世界は外にあったのだと。

この比喩が語ろうとするものは何でしょうか。壁の影は、私たちが感覚で接する世界です。洞窟の外の太陽のもとに広がる真の世界は、理性によってのみ到達できる真理の世界、すなわちイデアの世界です。

プラトンは、私たちの多くが影を実在と錯覚しながら生きていると見ます。哲学とはまさに、その鎖を解いて洞窟の外へ進む困難な旅なのです。そしてその旅が困難な理由は、闇に慣れた目にとって光がはじめは苦痛として迫るからです。

この比喩には悲しい結末も込められています。真理を見た人が洞窟に戻って仲間に真実を伝えようとすると、人々は彼を信じず、むしろ狂っていると見なして退けます。ここに私たちはソクラテスの影を見ます。真理を語った者が多数に殺されたあの悲劇です。

線分の比喩と太陽の比喩

洞窟の比喩はあまりに有名なので単独で引かれることが多いのですが、じつは国家においてこの比喩は、先に提示された二つの別の比喩とひと組をなしています。太陽の比喩と線分の比喩です。三つの比喩はたがいを補い合い、プラトンの認識論、すなわち私たちが何をどう知るのかについての絵を、ともに完成させます。

まず太陽の比喩です。プラトンは、目に見える世界で太陽が果たす役割に注目します。太陽は事物を照らして私たちの目に見えるようにするだけでなく、万物が育ち存在するようにする根源でもあります。

プラトンは、知性の世界にもこのような太陽があると言います。それが善のイデアです。太陽が事物を見えるようにするように、善のイデアは他のすべてのイデアを知りうるようにし、さらにそれらが真に存在するようにする究極の源だというのです。私たちが真理を見分けられるのは、この知的な太陽が万物を照らすからだ、という比喩です。

つぎに線分の比喩です。プラトンはひとつの線分を引いて、それを四つの部分に分けて認識の段階を説明します。大きく見れば、線分はまず感覚で接する世界と、知性で把握する世界に分かれます。

感覚の領域はさらに、影や映りこみのようなおぼろな像の段階と、目の前の具体的な事物の段階に分かれます。知性の領域はさらに、図形や数のように仮定に頼って推論する段階と、仮定を越えてイデアそのものを直接に把握するもっとも高い段階に分かれます。下から上へ上がるほど、私たちが扱う対象はより真であり、それについての私たちの知もより確かになります。

こう見ると、三つの比喩はひとつの旅を異なる仕方で描いたものだと分かります。洞窟の比喩は影から太陽へ進む魂の劇的な上昇を物語として見せ、線分の比喩はその上昇の段階を地図のように整理し、太陽の比喩はその旅の果てにある善のイデアが何であるかを明らかにします。感覚界と知性界を分け、その頂点に善のイデアを置くこの構図は、次の章で扱うイデア論の骨格でもあります。


イデア論 — 本当の実在はどこにあるのか

洞窟の比喩は、プラトン哲学の核心であるイデア論へとつながります。これはやや抽象的ですが、西洋思想全体を理解するうえで非常に重要な概念です。

プラトンは、私たちが感覚で見る世界と、理性によってのみ把握できる真の世界を区別します。たとえてみましょう。私たちは世界で数多くの円を見ます。器のふち、車輪、満月。しかしそのどれも完璧な円ではありません。

ならば私たちはどうして完璧な円という概念を知るのでしょうか。プラトンによれば、それは私たちの心のなかに完璧な円のイデア、すなわち理想的な原型があるからです。私たちがどんな実際の円を前にしても少しゆがんでいると感じられるのは、すでに完全な円の基準を知っているからだ、というのです。

イデアは、美しさ、善さ、正義といった抽象的な概念にも当てはまります。世界には美しいものが多くありますが、それらは美しさそのものの不完全な影にすぎません。真の美、真の正義、真の善は、感覚の彼方のイデアの世界に完全な形で存在するというのです。

プラトンにとって、これらすべてのイデアの頂点にあるのが善のイデアです。それはまるで太陽のようで、真理を照らし、私たちが真理を見られるようにする究極の原理です。哲学者の任務は、まさにこの善のイデアへ向かって進むことです。

もちろんイデア論は長い年月、批判の対象でもありました。すでに彼の弟子アリストテレスから、イデアが事物とは別に存在するという発想に疑問が呈されました。

アリストテレスが投げかけた批判のなかで広く知られたものに、いわゆる第三人間論法があります。その趣旨を大まかにひらいて言えばこうです。世界の多くの人が人である理由が、彼らとは別に存在する人のイデアを分け持ったからだとするなら、いまやそのイデアと個々の人々がともに人らしさを共有するのだから、これらを包みこむもうひとつの上位のイデアが必要になります。そしてこの過程は果てしなく繰り返されます。

このようにイデアを事物と完全に切り離された別の実在として立てると、説明が無限に後ろへ押しやられ、かえって何も説明できなくなるというのが批判の要点です。アリストテレスはこうした問題意識のうえで、普遍的な形相は個々の事物と切り離された天上にあるのではなく、事物のなかに宿っているという自分なりの代案へと進みました。

それでもイデア論の重みは少しも軽くなりません。批判が狙ったのはイデアが事物と別に存在するのかという形而上学的な仕掛けであって、プラトンが投げかけた根本の問いそのものではなかったからです。

目の前の世界はつねに変わり不完全なのに、私たちはどうして完全で変わらない概念を知るのか。美しいものは多いのに、美しさそのものとは何か。私たちが真理と呼ぶものは、どこにその根拠を置くのか。これらの問いは、イデア論という特定の答えを越えて、以後の西洋哲学が二千四百年のあいだ絶えず対話し格闘してきた問題の源となりました。

本当の実在とは何か、私たちはどうして真理を知るのか。答えに同意しない人でさえこの問いの前では立ち止まらざるをえない、という点こそ、イデア論が残したもっとも大きな遺産かもしれません。


哲人政治とその批判

さて、国家でもっとも論争的な箇所にたどり着きました。すなわち哲人政治、哲学者が治めるべきだという主張です。

ソクラテスはこう言います。哲学者が王になるか、王が哲学をしないかぎり、国の不幸は終わらないだろうと。その論理はこうです。統治とはもっとも難しい技術であり、ただ真理と善のイデアを知る哲学者だけが何が真によいものかを知りうるので、彼らが治めるべきだというのです。航海に無知な人が船の舵を握ってはならないように、統治も知る者にゆだねるべきだというたとえです。

一見もっともらしく聞こえます。もっとも賢い者が治めるならよいのではないか。しかしここには深刻な問題がひそんでいます。

ひとつ付け加えておきたいのは、国家が統治者と守護者の階層をめぐって差し出す提案が、当時の基準ではきわめて急進的だったという事実です。

プラトンは、守護者階層のなかで女性も男性とまったく同じように教育を受け、統治と守護の任務を担いうると言います。能力にふさわしい役割を任せるうえで、性別は本質的な障壁ではないというのです。女性が公的な領域から徹底して排除されていた古代アテネにおいて、この発想は型破りに近いものでした。

さらにプラトンは、守護者階層にかぎって私的な家族と私有財産をなくし、子どもを共同で養育しようとまで提案します。統治者たちが私の家族、私の財産という私的な利害に縛られず、ただ共同体全体の善だけを見るようにするための趣旨です。

これらの提案は、今日の目で見ると評価が大きく分かれます。性別を越えた能力本位の発想は時代を先取りした洞察として読まれる一方、個人の家族と私生活を共同体のために解体するという発想は、個人の自由を押しつぶす危険な青写真として読まれることもあります。同じテキストが進歩的にも抑圧的にも読まれうるという点、これが国家をめぐる論争が今も熱い理由のひとつです。

批判の声

もっとも有名な批判は二十世紀の哲学者カール・ポパーから出ました。彼は国家が描いた理想国家がじつは全体主義の青写真に近いと痛烈に批判しました。少数の賢い者が絶対権力を握り、個人の自由と多様性が全体の調和という名目で抑えつけられる社会、これこそが開かれた社会の敵だというのです。

もうひとつの根本的な問いがあります。誰が真の哲学者なのかをどうして知りうるのか。みずから賢いと称する者が、じつは危険な者かもしれません。

絶対権力は絶対的に腐敗するという古い戒めもここにかかります。どんなに善い統治者でも、抑制されない権力は危険だというのが近代政治思想の重要な教訓です。

一方で、プラトンを擁護する解釈もあります。国家を文字どおりの政治の青写真ではなく、正しい魂の隠喩として読むべきだというのです。この視点では、理想国家は実際に建設せよという設計図ではなく、私たち各人の内面をどう治めるべきかを示す鏡です。プラトン自身も、この理想国家が地上に完璧に実現されるのは難しいと認める箇所があります。

このように哲人政治は魅惑的であると同時に危険な発想です。賢い者の統治という理想と、抑制されない権力の危険のあいだで、私たちはいまなお答えを探しています。

政体の堕落の段階 — 理想から僭主政まで

国家の第八巻と第九巻で、プラトンは興味深い物語を繰り広げます。理想的な政体がどのように徐々に崩れ落ちていくのかについての叙述です。

彼は、最善の政体が一度に最悪へと落ちるのではなく、いくつもの段階を経て少しずつ堕落していくと描きます。各段階は、先立つ政体が抱えていた欠陥が膿んで破れることで次の段階へと移っていく仕方でつながっていきます。

プラトンが描いた順序を概念的に整理すると、こうです。知恵が治める最善の政体から出発し、名誉と勝利を前面に押し出す政体へ、さらに富と財産が資格となる少数の政体へ、そして自由と平等を掲げる多数の政体へ、ついには一人の無制限の権力へと突き進む政体へと滑り落ちていくというのです。

各段階のあいだには、前の秩序が抱えていたひずみが少しずつ膨らみ、やがて次の秩序へと転じていく静かな連鎖があります。プラトンはこの推移を、外からの侵略ではなく内側からの緩みとして描きます。

各段階ごとに、人間の魂においてどの部分が主導権を握るのかもともに変わっていくと彼は見ます。理性が退いて名誉欲が、さらに財物欲が、そしてあらゆる欲望が順に魂を支配していき、ついにはもっとも節度を欠いた欲望に囚われた魂が現れるというのです。

プラトンが描いた政体の堕落の順序

1. 最善の政体  — 知恵が全体を治める
2. 名誉政      — 名誉と勝利への欲望が先立つ
3. 寡頭政      — 少数の富める者が財産を基準に治める
4. 民主政      — 自由と平等を掲げて多数が治める
5. 僭主政      — 一人の無制限の権力に帰結する

ここで二つのことを慎重に断っておく必要があります。

第一に、プラトンが用いた名誉政、寡頭政、民主政といった言葉は、古代ギリシアの文脈で使われた概念であり、今日の私たちが同じ名で呼ぶ現代の制度とただちに同じだと見ることは難しいということです。とりわけプラトンの言う民主政は、彼が生きたアテネの直接民主政を指しますから、現代の代議制民主主義とそのまま重ねて読むのは無理があります。

第二に、この堕落の物語は、ある特定の現代の国家や体制を名指しで批判する政治的な診断ではなく、政体と人間の魂がどのようにたがいに似た仕方で崩れうるのかを示す概念的なモデルに近いということです。

ですからこの順序を今日のどこかの国に性急に当てはめるよりも、よき秩序が何によって揺らぎはじめるのかについてのひとつの思考実験として読むほうが、プラトンの意図により近いでしょう。


政治哲学の出発点 — なぜ今も読むのか

イギリスの哲学者ホワイトヘッドは、西洋哲学の歴史全体がプラトンへの注釈にすぎないという有名な言葉を残しました。やや誇張ですが、国家が西洋政治哲学で占める位置をよく示しています。

国家は、政治哲学が扱うべき根本の問いをほぼすべて、初めて体系的に投げかけた書です。正義とは何か。理想的な社会はどのような姿か。誰が、どのような資格で治めるべきか。個人と共同体はどのような関係を結ぶべきか。よき生とは何か。

以後二千四百年のあいだ、数多くの思想家がこれらの問いに答えようとし、その過程で政治哲学という学問が育ちました。答えはそれぞれ異なりましたが、問いの目録は驚くほどプラトンが最初に書き留めたそのままでした。

プラトンに同意しようと反対しようと、彼が投げかけた問いを避けられる人はいません。

アリストテレスはプラトンの理想主義を批判してより現実的な政治学を打ち立て、近代のホッブズ、ロック、ルソーはそれぞれ異なる仕方で正しい国家を問い直しました。このすべての対話の最初の一言が国家でした。


なぜ正しい人はより幸福か

国家の長い旅は、結局のところ最初の挑戦へと立ち戻ります。トラシュマコスとグラウコンが投げかけた問い、すなわち正しい生が不正な生よりも本当により良いのか、という問いです。

第九巻でプラトンはついにこれについての自分の結論を差し出します。正しい魂は無秩序な魂よりも幸福だ、というものです。

その論証の骨組みは、先に見た魂の三分説のうえに立っています。正しい人とは、理性が全体を導き、気概がそれを助け、欲求が自分の場を守る、よく治められた魂をもつ人です。このような魂は内で争わないので、調和して穏やかです。

逆に不正な人の魂では、あらゆる欲望が理性を押しのけ、それぞれが主人ぶろうとします。プラトンはその極端に僭主のような魂を置きます。うわべは何でも思いのままにできて自由に見えても、じつは果てしない欲望の奴隷となり、つねに恐れと不安に苛まれるもっとも惨めな状態だというのです。無秩序な魂は決して真の満足に至れないまま、満たされぬ渇きのなかでみずからを蝕んでいきます。

プラトンはこうして正義を描き直します。正義とは他人によく見られるための上辺の飾りでも、損を引き受ける愚かさでもありません。それは魂が健やかに秩序づけられた状態そのものであり、身体の健康がそれ自体でよいものであるように、魂の正義もそれ自体でよいものだというのです。

したがって、ギュゲスの指輪をはめて露見せずに不正を犯す人でさえ、その瞬間に自分の魂を病ませているのだから、決してより幸福ではありえないというのがプラトンの答えです。

この論証が完全に成功したかどうかについては、古くから意見が分かれます。ある人は、魂の健康と私たちがふつう言う幸福が本当に同じものなのかと問い返します。またある人は、よく治められた内面こそがよき生だというプラトンの洞察に深く共感します。

この文章は、どちらが正しいと判定はしません。ただこの問いだけはあなたに残しておきたいのです。もし誰にも知られずに不正を犯しながら、世のあらゆるよきものを享受できるなら、その人は本当に幸福なのでしょうか。それとも正しい魂には、どんな利得とも引き換えにできない種類の平穏が宿るのでしょうか。


現代の民主主義との対話

ここで慎重ながら興味深い地点にたどり着きます。プラトンはじつは民主主義に批判的でした。

彼が生きたアテネの民主主義は、多数の市民が直接政治に参加する制度でした。ところがプラトンは、まさにその民主主義が自分の師ソクラテスを殺したという事実を忘れませんでした。

彼は、多数が必ずしも正しいわけではなく、大衆が感情と扇動に流されうると憂えました。専門性のない多数の支配が無秩序と衆愚政治へ流れうるというのです。

この批判は今日の私たちにも考える材料を投げかけます。現代の民主主義もまた、ポピュリズム、世論の操作、感情的な分極化といった問題と格闘しています。プラトンの憂いは、単なる古い反民主主義ではなく、民主主義がつねに警戒すべき危険を先取りした洞察として読むことができます。

プラトンの側に立って彼の批判をもう少し擁護してみると、こう言えます。重要な決定には専門性が必要だというのは常識です。私たちは橋を架けるとき技師にゆだね、病を治すとき医者を訪ねます。

ならば一国の運命を左右する政治という極めて難しい事柄を、その事柄について何の備えも知識もない多数の即興の票決にゆだねるのが、はたして賢明でしょうか。プラトンならこう問い返すでしょう。しかも大衆は華やかな弁舌と感情的な扇動に容易に流されます。師ソクラテスを殺したのも、ほかならぬ多数決でした。

多数が望むという事実がその決定を正しくするわけではないこと、真理は票の多寡で決まらないこと、これがプラトンが私たちに残した冷ややかな警告です。

しかしバランスを失ってはなりません。現代の民主主義を擁護する立場からはこう答えます。完璧に賢い統治者を見つけることは不可能に近く、むしろどんなにすぐれた者にも絶対権力を与えずにたがいに抑制させること、そして誤った統治者を平和的に交代させられるようにすることこそが民主主義の本当の強みだというのです。プラトンが理想的な知恵を追ったなら、近代の民主主義は人間の不完全さを前提に制度を設計しました。

この反論はいくつかの方向へさらに伸びていきます。まず政治は、橋を架けたり病を治したりする事柄とは違い、ひとつの正解が定まっている技術的な問題ではないという指摘があります。税をどこに使うか、自由と安全のうち何をどれだけ重んじるかといった問いには、異なる価値がぶつかり合い、こうした問題では誰か一人の知恵が万人を代われないというのです。

また、自分の生に影響する決定にみずから参加する権利、すなわち自治の価値そのものが尊いという反論もあります。たとえ賢者にゆだねればより良い結果が出るとしても、人々がみずから治める自由を奪われることは、それ自体で失うものが大きいというのです。

さらに、決定に多くの人の視点が集まるほど特定の集団の偏りを漉し取りやすいという、多様性の利点を強調する見方もあります。

それでもこの反論がプラトンの憂いを完全に鎮めるわけではないという点も、公平に付け加えねばなりません。抑制と交代の仕掛けがあっても、多数が誤った方向へ傾く危険が消えるわけではないからです。

結局この論争は、どちらか一方の完勝で終わることなく、知恵と参加、専門性と自治という異なるよきもののあいだの長い緊張として残ります。この文章がどちらの側にも立たない理由も、まさにここにあります。

どちらが正しいのかを、この文章は断定しません。ただプラトンと現代の民主主義のあいだのこの緊張こそが、国家を今読むべき生きた理由です。私たちは知恵を望むのか、それとも抑制を望むのか。あるいはその両方を併せもつ道があるのか。この問いは二千四百年たった今も開かれています。


国家を読むいくつかの方法

国家が長い年月を生き延びたもうひとつの理由は、この本が一つの仕方だけで読まれるのではないからです。同じテキストをどのような目で開くかによって、まったく別の本になります。

代表的ないくつかの読み方を紹介します。これらはたがいに排他的というより、一冊の分厚い本を照らす複数の照明に近いものです。

第一に、政治の青写真として読む方法です。国家を文字どおりに受け取り、ここに描かれた階層社会と哲人統治を、実際に目指すべき理想の政治秩序と見る読み方です。

この視点では国家は、何が正しい社会かについての真剣な提案であり、それゆえカール・ポパーのようにその提案の危険を警戒する批判も、この読み方の延長線上から出てきます。

第二に、魂の隠喩として読む方法です。先にも触れたように、理想国家は地上に立てよという設計図ではなく、正しい魂がどのような姿かを大きく拡大して見せる鏡だという読み方です。

この視点では統治者と守護者と生産者は、すなわち私たちのなかの理性と気概と欲求であり、国家が投げかける本当の問いは、どう国を治めるかではなく、どう私自身を治めるかになります。

第三に、教育論として読む方法です。国家のかなりの部分は、じつは守護者をどう育てるかについての議論です。どんな物語を聞かせ、どんな音楽と体育で体と心を形づくるのか、何を学ばせ何から守るのかをめぐって、プラトンは長く語ります。

この視点では国家は、西洋で最初の本格的な教育哲学書のひとつとして読まれます。人をどう育てればよき人とよき市民になるのかという問いが、この本の隠れた中心軸だというのです。

第四に、哲学入門書として読む方法です。国家のなかには、形而上学、認識論、倫理学、政治哲学、芸術論が広く収められています。

イデア論と三つの比喩、魂論と正義論が一冊のなかに絡み合っているので、この本一冊をじっくり追うだけでも、西洋哲学の大きな問いに広く出会うことができます。だから国家は今も、哲学の世界へ入る最初の扉としてしばしば勧められます。


短いまとめ — 国家の五つの問い

長い議論を通り過ぎた今、国家が私たちに投げかける核心の問いを五つに絞ってみます。

この本の厚さに押しつぶされず、その心臓をつかみたいなら、この五つの問いだけを覚えておいてもよいでしょう。

第一に、正義とは何か。それは強者の利益にすぎないのか、それとも各人が自分の場で調和をなす内面と共同体の秩序なのか。この問いが本全体の出発点です。

第二に、正しい生はそれ自体でより良いのか。ギュゲスの指輪をはめて露見せずに不正を犯しても何の損もないなら、それでも私たちは正しく生きるべき理由があるのか。

第三に、誰が治めるべきか。もっとも賢い者にゆだねるべきか、それとも誰にも絶対権力を与えず、たがいに抑制しながらともに治めるべきか。

第四に、私たちは何を実在と見なすのか。私たちが当然のように受け入れる世界は真の真理なのか、それとも洞窟の壁に揺らめく影にすぎないのか。

第五に、よき生とは何か。よく治められた魂の平穏と、節度を欠いた欲望の自由のうち、どちらが真に幸福な生なのか。


おわりに — いまなお開かれている問い

国家を読み終えると、意外な事実に気づきます。この分厚い本は、正義が何かについての完結した正解を与えません。むしろ私たちをより深い問いのなかへ連れていきます。

もしかすると、それがこの古典の本当の力かもしれません。プラトンは私たちに正解を暗記せよとは言いません。かわりにともに問おうと招きます。ソクラテスがアテネの街でそうしたように。

正義とは何か、よき生とは何か、私たちはどんな共同体を作るべきか。これらの問いの前でみずから考える力、それこそがプラトンが本当に受け継がせたかった遺産でしょう。

洞窟の比喩を思い出しましょう。私たちはもしや、影を実在と錯覚しながら生きてはいないでしょうか。私たちが当然と見なす通念、私たちが正義と信じるものは、本当に真理でしょうか、それとも壁に映った影でしょうか。この問いを投げかけた瞬間、私たちはすでに鎖を少し解き、洞窟の外へ一歩を踏み出しているのです。

もしかすると本当に偉大な古典とは、答えを差し出す本ではなく、私たちをしてみずから問わせる本なのかもしれません。手軽な正解を与える本は読んだ瞬間に消費され忘れられますが、よき問いを植えつける本は、閉じたあとも長く心のなかで育ちつづけます。

国家が二千四百年を耐えた力は、ある完結した教義にあるのではなく、世代が変わっても人々が問い返さずにいられなくする、その問いの生命力にあります。私たちがこの本に同意しようと反対しようと、本を閉じたあとに正義とよき生と共同体について少しでも深く考えるようになるなら、プラトンの招きはすでに成功したことになるのです。

考えるためのヒント

  • トラシュマコスの主張、すなわち正義とは強者の利益にすぎないという冷笑に、あなたはどう答えますか。
  • もっとも賢い人が治める国と、誰も絶対権力をもてないよう抑制する国。あなたはどちらで暮らしたいですか。
  • 私たちが今実在だと信じるもののうち、じつは洞窟の壁の影かもしれないものは何でしょうか。
  • 多数が下した決定がつねに正しいとはかぎらないなら、私たちは多数の意思と正しさのあいだでどうバランスをとるべきでしょうか。
  • 誰も見ておらず、いかなる処罰もないギュゲスの指輪の前で、あなたはなお正しく振る舞うでしょうか。そうだとすればその理由は何であり、そうでないなら、それは正義について何を語るのでしょうか。
  • よき秩序が何らかの欠陥のために徐々に崩れていくという政体の堕落という概念は、特定の国を指さなくとも、今日の共同体を顧みるうえでどんな問いを投げかけるでしょうか。

参考資料