Skip to content
Published on

SF短編小説: 記憶を売る店

Authors

路地の奥の店

雨の降る日には、街の裏路地はいっそう深くなった。濡れた煉瓦は黒く染まり、街灯の光が水たまりの上で揺れていた。そんな路地のいちばん奥、もうほかのどんな看板も見えなくなる場所に、小さな店が一軒あった。

雨水は軒先を伝って、細い糸のように流れ落ちていた。路地はもう長いあいだ人の足が途絶えているようで、ただ雨の音だけが、狭い壁と壁のあいだを満たしていた。遠くから聞こえる街のざわめきも、この奥までは届かなかった。

看板には、きちんとした字でこうとだけ書かれていた。記憶保管所。その下に小さな字で、売り買いいたします。

この街に住む者なら、誰もがその店の噂を一度は耳にしていた。けれど、実際にその扉を開けてみた者は少なかった。記憶を売るとはどういうことなのか、人々はぼんやりとしか知らなかった。

忘れたい一日を取り除けるとも言われた。見知らぬ誰かの幸せだった午後を買って、自分のものとして抱いていられるとも言われた。なかには、その店はそもそも存在しないのだ、悲しみに沈んだ人々が生み出した、ただの噂にすぎないのだと言う者もいた。

ヨヌはその扉の前に長いあいだ立っていた。傘もささず、雨が肩を濡らすのも気づかないまま。

彼は幾日も迷っていた。この路地を探してさまよった夜も、一度や二度ではなかった。けれど、いざ扉の前に立ってみると、中へ入ることが、この世でいちばん難しいことのように感じられた。

雨水がまつげに溜まり、目尻を伝って流れ落ちた。それが雨なのか涙なのか、彼自身にも見分けがつかなかった。

彼は手を上げ、扉に触れるか触れないかのところで、ためらった。扉の向こうに何が待っているのか、恐ろしかった。けれど、もっと恐ろしかったのは、このまま何もできずに、また一日を耐えることだった。

取っ手は冷たかった。彼が扉を押すと、頭の上で澄んだ鈴の音が鳴った。

店の中

店の中は思ったよりも暖かかった。雨に冷えていた指先が、敷居をまたいだ瞬間、ゆっくりとほどけていった。

壁に沿って果てしなく続く棚にはガラス瓶がぎっしりと並び、そのなかで何かがほのかに光っていた。ある瓶は暖かな琥珀色、ある瓶は冷たい青、またある瓶はほとんど光を失って灰色に近かった。

空気には、古い紙と乾いた草、そしてかすかなお茶の匂いがした。光が揺れるたびに、天井に小さな影がゆらめいた。ヨヌは、数えきれないほどの星が眠る部屋に足を踏み入れたようだと思った。

カウンターの奥に、ひとりの老人が座っていた。白髪に丸い眼鏡をかけた彼は、本を読んでいたが、ゆっくりと顔を上げた。

「いらっしゃいませ」と老人は言った。「ずいぶん降っていますね」

「ここが、記憶を売るところですか」ヨヌの声は、自分でも気づかぬうちに小さくなった。

「買いもしますし、売りもします」老人は本を閉じながら言った。「どちらでしょう」

ヨヌは答えられなかった。じつのところ、彼は自分が何を望んでいるのかも確信のないまま、ここへ来ていた。

ただ耐えられないものがひとつあり、その重さを減らしたいという思いだけははっきりしていた。

老人はその沈黙を読んだように、やわらかく続けた。

「ゆっくりご覧になってかまいません。記憶は逃げませんから。少なくとも、ここにあるものは」

老人はふたたび本へ視線を落とした。急かさないその態度が、ヨヌの肩を少しだけ軽くした。

光る瓶たち

ヨヌは棚のあいだをゆっくりと歩いた。近くで見ると、瓶のひとつひとつに小さな札がついていた。初雪の日の散歩。祖母の台所。はじめて自転車に乗った夏。札を読むだけで、胸の片隅がうずいた。

瓶は手のひらに収まるほどのものから、両腕で抱えなければならないほど大きなものまで、さまざまだった。光の色も、きめも、揺れる速さも、それぞれに違っていた。ある光はろうそくの炎のように静かで、ある光は波のようにうねっていた。

「この中に、本当に誰かの記憶が入っているのですか」と彼は尋ねた。

「記憶は人の頭のなかにだけあると、みなさん思っています」老人が近づいてきて言った。「けれど記憶とは、つまるところ光とふるえの模様にすぎません。それを移し替える術を知れば、瓶の中にも収められるのです」

老人は琥珀色に光る瓶をひとつ持ち上げた。

「これはある漁師の記憶です。生涯を海で働いた人でしてね。夜明けの海の匂い、網を引き上げるときに指先に伝わる重み、水平線が赤く染まる瞬間。その人は年老いてもう海に出られなくなると、この記憶を誰かが受け継いでくれることを願って、預けていきました」

「売らずに」

「ある記憶は、売るものではなく、預けるものなのです」老人は瓶をもとの場所に戻した。「値をつけられないものもありますから」

ヨヌはその言葉を噛みしめた。自分が取り除きたい記憶は、値をつけられるものなのだろうか。

初雪と、帰ってきた足音

老人は、ヨヌの視線がひとつの瓶に長くとどまっているのを見た。青みを帯びた、小さく丸い瓶だった。札にはこう書かれていた。子どもの初雪。

「その瓶が気になるようですね」と老人は言った。

「光が、しきりに瞬くものですから」とヨヌは言った。「まるで笑っているみたいで」

老人はその瓶を、そっと手に取った。手のひらのなかで、青い光が静かにゆらめいた。

「ある母親が預けていった記憶です。子どもが生まれてはじめて雪を見た日の記憶ですよ。窓の外に白いものが降りてくるのを見て、子どもが手を伸ばして笑ったそうです。それが何かも知らないままに。その母親は、その瞬間を、この世でいちばん澄んだ光と呼びました」

「それなのに、どうして預けたのですか。そんなに大切な記憶を」

「預けたのであって、売ったのではありません」老人はやわらかく首を振った。「その母親は病を患っていました。いつか自分が、その瞬間を忘れてしまうのではないかと恐れていたのです。だからいちばん明るいうちに、いちばん欠けのない姿で、ここに預けておいたのです。忘れても、どこかにその光が残っているように」

ヨヌは瓶のなかの光を、じっと覗き込んだ。小さな光がひとつ、本当に誰かの笑みのように瞬いていた。

「こんな瓶もあります」老人は別の棚へと歩を移した。そこには、赤みを帯びた暖かな光の瓶が置かれていた。「長く家を離れていた兵士が、ようやく故郷へ帰ってきた日の記憶です」

「戦地から」

「遠い場所でした」老人はうなずいた。「彼は何年ものあいだ帰れませんでした。それがついに汽車を降り、見慣れた道をたどって上っていったのです。庭の柿の木、門の前で待っていた年老いた母、そして自分のほうへ駆け出してきた家族の顔。そのすべてが一度に押し寄せてきたあの瞬間を、彼は生涯失いたくないと言いました」

「それでここに預けたのですね」

「そのとおりです。ほかの記憶はかすんでもいいから、これひとつだけは最後まではっきりと残しておきたいと言いました。人は誰しも、そうして最後まで守りたい光をひとつくらい、胸に抱いて生きているものです」

ヨヌは二つの瓶を交互に見つめた。初雪の青い光と、帰郷の赤い光。どちらもこのうえなく暖かかった。

ふと彼は、自分が取り除こうとしているものも、結局はこんな光ではないのか、と思った。

取り除きたいもの

「売りたい記憶があるんです」ヨヌはついに言った。

老人はカウンターに戻って座り、うなずいた。「どんな記憶でしょう」

「ひとりの人を、失いました」ヨヌの声は震えた。

彼はしばし息を整えた。言葉にするだけで、長く押さえつけていた何かが、ふたたびこみ上げてくるようだった。

「長いあいだ一緒にいた人でした。その人が去ってから、ともに過ごしたすべての瞬間がそのまま残って、私を刺すのです。一緒に歩いた道、ともに食べた夕食、笑っていた顔。よい記憶であるほど、いっそう痛みます」

「その記憶を、すべて取り除きたいのです」

店の中にしばし静けさが流れた。雨の音だけが、窓の外で低く響いていた。

老人は長いあいだヨヌを見つめた。そのまなざしには、同情も非難もなかった。ただ、深い理解のようなものがあった。

「できます」と老人は言った。「その記憶をすべて瓶に収めてお持ち帰りいただけます。そうすればあなたは、その人をもう思い出せなくなります。名前も、顔も、ともに過ごしたどの日も。まるではじめから出会わなかったかのように」

「そうしてください」ヨヌは、ほとんどすがるように言った。

「ですが」老人は手を上げた。「ひとつ知っておいていただきたいことがあります」

老人はゆっくりと続けた。

「記憶は、離れて立つ点ではありません。たがいに結ばれた糸なのです。ひとりの人についての記憶を引き抜くと、その糸にともに編み込まれたほかのものも、ほどけてしまいます」

ほどけていく糸

老人は灰色に近い瓶をひとつ取り出した。そのなかの光は、ほとんど消えていた。

「これはある客が預けていった記憶です。その方もあなたと同じように、誰かを失った悲しみを軽くしたいと願っていました。それでその人についての記憶を、すべて私に売ったのです」

「それで楽になったのですか」

「悲しみは消えました」老人は瓶を静かに覗き込んだ。「けれどその方は、しばらくして再び訪ねてきました。何かがおかしいと」

老人はしばし言葉を止めた。

「なぜある歌を聴くと涙が出るのか、分からなくなったと言うのです。なぜ特定の季節になると心の片隅がからっぽになるのか、その理由を失ってしまったと」

ヨヌは息を殺した。

「その人についての記憶を引き抜いたとき、ともにほどけていったものがあったのです。その方がはじめて誰かを深く愛することを学んだ瞬間、ともに過ごした時間のなかで育った優しさ、別れに耐えて強くなった心。そうしたものまで、ともに消えてしまった」

「悲しみだけをえぐり取ることはできなかったのです。悲しみは、愛のもうひとつの名でしたから」

ヨヌは灰色の瓶を見つめた。そのなかの、ほとんど消えかけた光が、まるで何かを失った人の、からっぽの瞳のように見えた。

消えた名前

「その客は、そのあとどうなったのですか」とヨヌは尋ねた。

老人は灰色の瓶を、そっともとの場所に戻した。

「しばらくのあいだ、たびたびここを訪ねてきました」と老人は言った。「自分が失ったものが何なのかさえ分からないままに。ただ、胸のまんなかに穴があいたようだとだけ言いました。とても大切な何かがあった場所なのに、それが何だったのか、どうしても思い出せないのだと」

「取り戻すことはできなかったのですか。この瓶に収めた記憶を、もう一度お返しすれば」

老人はゆっくりと首を振った。

「記憶は一度瓶に収められると、もとの場所へそっくり戻ることはできません。一度ほどけた結び目のようにね。結び直すことはできますが、はじめとまったく同じ形にはなりません。私はその方に、この瓶を何度もお返ししようとしました。けれどその方は、ついに受け取りませんでした」

「どうして」

「恐れていたのです」老人の声が低くなった。「その空いた場所が、ふたたび悲しみで満たされることを。いっそ、からっぽのまま生きるほうがいいと言いました。けれど私には分かります。その方は、悲しみを失ったのではなく、愛した人を、もう一度失ったのだということを」

ヨヌは長いあいだ言葉がなかった。雨水がガラス窓を伝って、ゆっくりと流れ落ちていった。

その空いた場所を、彼は想像してみた。誰かを愛したという事実さえ覚えていないまま、わけの分からない空しさだけを抱えて生きていく暮らしを。それは悲しみよりも、もっと寂しいものなのかもしれない、と彼は思った。

記憶と、私というもの

「それでは」ヨヌは慎重に口を開いた。「記憶が、そのままその人なのですか。私たち自身というものが」

老人は眼鏡ごしに、彼をじっと見つめた。

「よい問いです」と老人は言った。「多くの人は、自分を名前や顔だと思っています。けれど名前は、ほかの人も呼ぶことができますし、顔は歳月が変えてしまいます。では、私たちを私たちたらしめるものは、いったい何でしょう」

「記憶、でしょうか」

「記憶は、私たちが通ってきたすべての道の模様です」老人はゆっくりと言った。「誰かを愛したこと、何かを失ったこと、恥じた夜、誇らしかった朝。その数えきれない模様が重なって、いまのあなたになったのです。模様をひとつ消すということは、織物全体から、その色糸を引き抜くことと同じです。織物は残りますが、もう同じ織物ではなくなります」

ヨヌは自分の手を見下ろした。その手は、かつて誰かの手を握った手だった。そのぬくもりを覚えている手だった。

「では、つらい記憶も、結局は私の一部だということですね」

「つらい記憶であるほど、より深く織り込まれています」と老人は言った。「喜びは軽く通り過ぎますが、悲しみは私たちのなかに長くとどまります。だからこそ、私たちをいっそう固く結ぶのです。もしかすると私たちは、自分が耐え抜いてきたものでできた存在なのかもしれません」

雨の音がしばし強まり、また静まった。ヨヌはその言葉を、胸のどこかへ、ゆっくりと下ろした。

浮かぶ顔

ヨヌはふたたび棚のほうへ視線を向けた。数えきれないほどの光が、それぞれの速さで揺れていた。その光を見ているうちに、心の奥に長く沈んでいたひとつの場面が、ゆっくりと浮かび上がってきた。

その人と過ごした、ある晩夏の台所だった。

窓から夕日が斜めに差し込んでいた。二人は、なんでもない夕食を作っていた。その人は鼻歌をうたいながら野菜を刻み、ヨヌはそのそばで、ぎこちない手つきで米を研いでいた。ラジオからは古い歌が流れ、窓の外では蝉の声が静まりかけていた。

何も特別なところのない夕べだった。それなのにヨヌは、その瞬間、ふと胸がいっぱいになるのを感じた。この人と一緒なら、こんなありふれた夕べが一生続いてもいい、と思った。

その人はそんな彼を振り返って尋ねた。「なにをそんなに見てるの」

「いや」ヨヌは笑って首を振った。「ただ、いいなと思って」

その人もつられて笑った。夕日が、その笑う顔の上にやわらかく降りそそいだ。

いまその場面を思い出すだけで、ヨヌの目頭が熱くなった。けれど不思議なことに、その熱さは、耐えられない痛みだけではなかった。そのなかにはたしかに、かつてあれほど満ちていた、ある幸福の余韻が残っていた。

「表情が変わりましたね」と老人が静かに言った。

「いま、ひとつの場面が浮かんだんです」とヨヌは言った。「ごく平凡な夕べでした。それがいまは、いちばん恋しい瞬間になってしまいました」

「そうです」と老人はうなずいた。「私たちがもっとも深く恋しく思うのは、たいてい、大それた出来事ではありません。ともに夕食を作った台所、並んで歩いた路地、何気なく交わしたひとこと。そんな小さな光なのです。そして、まさにその小ささこそが、その人が本当に私たちのそばにいたという、いちばん確かな証なのです」

ヨヌはその言葉に、ゆっくりとうなずいた。

老人の話

ヨヌは長いあいだ言葉がなかった。老人は彼に温かいお茶を一杯出した。湯気の立つ茶碗を、ヨヌは両手で包んだ。

「なぜこの仕事をなさるのですか」ヨヌは尋ねた。「記憶を売り買いすることを」

老人は眼鏡を外し、ゆっくりと拭いた。その目は、少し濡れているようにも見えた。

「ずっと昔、私もひとりの人を失いました」老人は静かに言った。

「あのころ私は、世のすべての記憶を消してでも、その苦しみから逃れたいと思いました。それで記憶を移す術を研究しはじめたのです。はじめは、自分のためでした」

「それで消したのですか。その人を」

老人は首を振った。

「術を完成させた日、私はその人とともに過ごした記憶をひとつ、瓶に収めてみました。試しに。私たちがはじめて出会った春の日の記憶でした」

老人の声は、いっそうやわらかくなった。

「その瓶を手に取ってみると、なかの光があまりに暖かくて、どうしてもそれを永遠に失うことができなかったのです。その春の日には、桜が舞っていました。その人は、散る花びらを手で受けとめようとしては、何度も取り逃がして笑っていました。私はその笑い声を、光となって瓶のなかに収まったその笑い声を、どうしても捨てることができなかったのです」

老人はカウンターの奥のいちばん深いところから、小さな瓶をひとつ取り出した。ほかのどの瓶よりも明るく、もっとも深い琥珀色に光る瓶だった。

「それから私は悟りました。記憶は重みでもありますが、その重みこそが、私たちが生きたという証なのだと。つらい記憶を消すということは、それに耐え抜いた自分自身の一部までも消すことなのだと」

耐えるということ

ヨヌは、老人の手にある春の日の瓶を見つめた。その明るい光のなかに、ひとりの人の笑みと、舞い散る桜とが、ともに眠っているように見えた。

「苦しみは、どうやって耐えたのですか」とヨヌは慎重に尋ねた。「その人を消さないと決めたあとに」

老人は長いあいだ、窓の外の雨を見つめた。

「耐えたというより、ともに生きる術を学んだ、というほうが近いでしょう」と老人は言った。「はじめは、毎日が崩れていくようでした。けれど時が経つにつれて、その悲しみが少しずつ形を変えていきました。刃のようだったものが、いつのまにか、重いけれど抱えられる石のようになったのです」

「悲しみが、消えたわけではなく」

「消えません。ただ、ともに生きる術を身につけるのです」老人はやわらかくほほえんだ。「奇妙に聞こえるかもしれませんが、私はもう、その悲しみを憎んではいません。それは、私がその人をどれほど愛したかを、毎日思い出させてくれますから。悲しみが深いということは、それだけ深く愛したということなのです」

ヨヌはその言葉を胸に刻んだ。窓の外の雨はあいかわらず降っていたが、その音が、どういうわけか少し優しく聞こえた。

「覚えているということは、ときにとても重いものです」老人は続けた。「けれど、その重みを背負うこともまた、愛することの一部なのです。去った人のために私たちにできるいちばん優しいことは、もしかすると、その人を忘れないことなのかもしれません」

店の中に、しばし静けさが降りた。光る瓶たちが、二人の沈黙を、そっと照らしていた。

選択

「だから私はこの店を開きました」老人は続けた。「記憶をみだりに売れないようにするためです。本当に耐えられない人には道を開きますが、その前に必ずこの話を聞かせます。選択はいつも、お客さまのものです」

老人はヨヌの前に空の瓶をひとつ置いた。透き通って、まだどんな光も宿していない瓶だった。

「さあ、今度はあなたが決める番です」

彼はしばし、ヨヌの目を覗き込んだ。

「その人についての記憶をこの瓶に収めて、お持ち帰りになりますか。そうすればあなたは軽くなる。けれど、その人とともに育ったあなたの一部も、ともに去っていきます。それとも、その記憶をそのまま抱えていかれますか。痛みを抱えたまま、けれど欠けることなく」

ヨヌは空の瓶を長いあいだ見つめた。

その人と歩いた秋の道が思い浮かんだ。落ち葉を踏む音、手をつないだときのぬくもり、なんでもない冗談にともに笑った夕べ。

とりわけ、ある夕べがはっきりと思い浮かんだ。これとよく似た雨の降る夜だった。二人は小さな軒の下に並んで立ち、雨がやむのを待っていた。その人は手のひらを差し出して雨粒を受けながら、たいしたことでもない話を、いつまでも続けていた。ヨヌはその横顔を見つめながら、この瞬間が永遠に終わらなければいいのに、と思った。あのときは知らなかった。そんなありふれた夕べが、のちにこれほど胸を刺す光になるとは。

そのすべてが、いまは刃のように痛んだ。けれどその痛みのなかには、たしかに愛があった。

もしこの記憶を取り除いたなら、彼はもうその人を思って泣くことはないだろう。けれど同時に、その人を愛した自分自身も、もはや存在しなくなるだろう。

愛することを学んだその時間、その時間がつくった今の自分。それを失うということは、つまるところ、自分を失うことだった。

雨のなかへ

ヨヌはゆっくりと、空の瓶を老人のほうへ押し戻した。

「持ち帰りません」と彼は言った。

声は震えていたが、不思議なことに、心の片隅が少し軽くなった気がした。

「痛みを抱えたまま、持っていきます。それも、その人が私に残してくれたものですから」

老人は静かにほほえんだ。そのほほえみには、悲しみと安堵が同居していた。

「よい選択です」と老人は言った。「記憶は私たちを痛めますが、同時に私たちを私たちたらしめます。忘れることが、いつも癒やしとはかぎりません。ときには、覚えていることが、もっとも優しい弔いなのです」

ヨヌは席を立った。空の茶碗を置くその手つきは、入ってきたときよりも、ずっと落ち着いていた。

扉のほうへ歩きながら、彼はもう一度振り返った。

「あの春の日の記憶は、まだお持ちなのですね」

老人はもっとも明るく光るその瓶を、そっと撫でた。

「もちろんです。毎晩、店を閉めたあと、私はこの瓶を取り出して見ます。すると、その人が、しばらくのあいだ私のそばに戻ってくるようなのです。それが、私がその人を愛するやり方です」

ヨヌはうなずいて扉を開けた。頭の上で、ふたたび鈴が澄んだ音を響かせた。

外では、まだ雨が降っていた。けれどどういうわけか、さっきよりも雨粒がやわらかく感じられた。ヨヌは傘もささずに路地を歩いて出た。肩は濡れていたが、彼はもう重くなかった。

路地を出ながら、彼はふと、その人とともに雨を避けたあの軒の下を思い出した。すると雨の音が、もう寂しいだけには聞こえなくなった。

彼は歩みを止めて、しばし空を見上げた。灰色の雲のあいだから、降る雨が街灯の光を受けて、細い銀色にきらめいていた。ふと、その人ならこんな雨を見て、なんと言っただろうと思った。きっとなんでもないひとことで、彼を笑わせたにちがいない。

もう、その声を直接聞くことはできなかった。けれど、その人が残してくれた優しさは、いまも彼のなかに生きていた。そしてそれこそが、誰にも奪い去ることのできないものだった。

胸のなかの記憶は、いまもそこにあった。痛く、暖かく、欠けることなく。そしてヨヌは、それを抱えて生きていくことに決めた。

作者のことば

この物語は、記憶とアイデンティティをめぐる古い問いから始まりました。私たちはしばしば、つらい記憶を消せたらいいのにと思います。けれど、私たちを痛める記憶は、たいてい、私たちが誰かを、何かを深く愛したという証でもあるのです。

もし悲しみだけをきれいにえぐり取れたなら、どうだろう。それは本当に私たちを自由にするのか、それとも、痛みとともに、私たちを私たちたらしめる何かまで奪い去ってしまうのか。この短い物語が、その問いをしばし一緒に思い浮かべるきっかけになれば幸いです。

記憶は、私たちが通ってきたすべての道の模様です。ある模様は明るく、ある模様は暗いけれど、そのすべてが集まって、ようやくひとりの人になります。闇をえぐり取ろうとして、私たちはしばしば、光までも一緒に失います。

記憶は重みです。けれどその重みは、私たちがたしかに生き、愛したという証でもあるのです。