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- Youngju Kim
- @fjvbn20031
最初のページ
祖母が亡くなったあと、ユナに残されたのは古いレシピ帳が一冊だけでした。
表紙は角がすり減って丸くなり、中の紙は年月で黄ばんでいました。あちこちに油のしみがにじみ、あるページは汁が飛んだのか文字がにじんでいました。祖母の字は大きくて丸っこく、書き取りをしかけた子どもの字のように、どこかぎこちなくて、それでいて愛おしいものでした。
ユナはそのレシピ帳を台所の引き出しの奥にしまっておきました。開いてみる勇気がありませんでした。開いた瞬間、祖母が本当に去ってしまったという事実が、手にとれてしまいそうな気がしたからです。
ユナを育てたのは祖母でした。両親が共働きで忙しかった幼いころ、ユナは放課後になるといつも祖母の家へ行きました。祖母の台所はいつもあたたかく、何かが煮えていて、いいにおいがしました。ユナにとって「家」という言葉は、すなわち祖母の台所のことでした。
そんな祖母が去ったあと、ユナの台所は冷たく冷えきっていました。ユナはもう料理をしませんでした。煮たり炒めたりする気力がわきませんでした。毎日、出前と即席の食事で食事を済ませていました。
そうして半年が過ぎました。
ある雨の日曜日、ユナはわけもなく心が沈みました。窓の外には雨がしきりに降り、部屋のなかは薄暗いものでした。冷蔵庫を開けても食べたいものがありませんでした。出前のアプリを開いて、また閉じました。何を食べても、ひもじさは消えない気がしました。そのときふと、引き出しのなかのレシピ帳が思い浮かびました。
ユナはレシピ帳を取り出しました。表紙をしばらく撫でました。そしてゆっくりと、最初のページを開きました。
そこにはきちんとした字でこう書かれていました。
「白菜のみそ汁。雨の日、心が冷えたときに。」
ユナは笑いがこみあげました。心が冷えたとき、だなんて。祖母らしい言い回しでした。そういえば本当に、心がどこか冷えた日でした。
白菜のみそ汁
ユナはレシピのとおりに材料を買ってきました。白菜半玉、みそ大さじ二、煮干しひとつかみ、長ねぎ一本。なんということもない材料でした。
レシピの最後の行にはこう書かれていました。
「火を弱めて、ゆっくりと。急いで煮ると味が逃げる。」
ユナはそのとおりに火を弱めました。鍋から湯気がゆっくり立ちのぼりました。みそがほどけて、香ばしいにおいが台所を満たしました。
そのとき、不思議なことが起こりました。
湯気とともに立ちのぼるそのにおいのなかで、ユナはふいにとても古い場面をひとつ思い出しました。七歳くらいだったでしょうか。雨の降る日、ユナは祖母の家の台所の小さな椅子に座っていました。祖母はみそ汁を作っていました。ユナが学校で友だちとけんかをして、しょんぼりと帰ってきた日でした。祖母は何も尋ねず、ただみそ汁を作ってくれました。
「お腹があたたかくなると、心もつられてほどけるんだよ。」
あのとき祖母が言ったその言葉が、湯気のなかにありありとよみがえりました。ユナはその言葉をすっかり忘れていました。それなのに、においが、忘れていた記憶をまるごとよみがえらせたのです。
ユナは汁をひとさじすくって口に入れました。その瞬間、涙がじんとにじみました。味のせいではありませんでした。まさに、まさにあの日の味だったからです。
ユナは食卓に座って、ゆっくりと汁を飲みました。ひとさじずつ口に入れるたびに、お腹があたたかくなりました。そして本当に、祖母の言葉のとおり、心も少しずつほどけていきました。半年のあいだ冷たく冷えきっていた何かが、湯気のたつその汁ひと椀に、ゆっくりと溶けていきました。
その夜、ユナはひさしぶりに深く眠りました。
二ページ目
その日から、ユナは毎週レシピ帳を一ページずつ開いてみるようになりました。
二ページ目には「にゅうめん。寂しい人が訪ねてきたときに」と書かれていました。
ユナは首をかしげました。寂しい人が訪ねてくるだなんて。誰が訪ねてくるというのでしょう。けれどその日の夕方、本当に客が来ました。長らく連絡の途絶えていたいとこでした。会社を辞めて、あてもなく地方をさまよっていたら、ふとユナのことを思い出したのだといいます。
「どうして急にわたしのことを思い出したの。」
「わからない。ただ……あたたかいおうどんが一杯食べたくて。」
ユナは鳥肌が立ちました。そしてレシピ帳を開き、にゅうめんを作りました。
煮干しと昆布でとった澄んだだしに、細く切った南瓜とにんじんを炒めてのせ、薄焼き卵を細く刻んで散らしました。いとこはうどんをひと箸すすると、しばらく何も言いませんでした。それから静かに口を開きました。
「この味……小さいころおばあちゃんが作ってくれたのとそっくり。」
二人は向かい合ってうどんを食べながら、昔話をしました。幼いころ祖母の家の庭で一緒に遊んだこと、夏には縁台に寝ころんですいかを食べたこと、祖母が二人の孫娘をひざにのせて昔話を聞かせてくれたこと。忘れていた記憶が、うどんの一本一本のようにひとつずつほどけていきました。
「あのね。」いとこが汁をすすりながら言いました。「わたし、じつは最近ずいぶんつらかったの。何もかも崩れてしまった気がして。でも、今日このうどんを食べたら……なんだか、もう一度やり直せそうな気がする。」
ユナは何も言わず、いとこの器にうどんを少し足してやりました。言葉はいりませんでした。あたたかいうどんひと椀が、どんな慰めの言葉よりも深くしみこんでいました。
いとこは帰るとき、ずいぶん軽やかな顔をしていました。玄関でいとこはユナをぎゅっと抱きしめて言いました。「ありがとう。また来るね。」その言葉には、来たときの陰りが消えていました。
三ページ目
三ページ目には「あずき粥。一年でいちばん長い夜に」と書かれていました。
ユナはカレンダーを見ました。ちょうど冬至が近いころでした。ユナはまたしても鳥肌が立ちましたが、今度はこわいというよりも、不思議であたたかい気持ちでした。
ユナはあずきを煮ました。赤いあずきをやわらかく煮て裏ごしし、白玉をまるめて落としました。台所には甘くて香ばしいにおいが満ちました。あずき粥がぐつぐつ煮える音を聞きながら、ユナはもうひとつの記憶を思い出しました。
幼いころ、冬至のたびに祖母はあずき粥を作りました。そして白玉の数を、ユナの年の数だけ数えて入れてくれました。「これを全部食べたら、ひとつ年をとるんだよ。」祖母のその言葉に、幼いユナは白玉をひとつも残さず食べました。
ユナは白玉をまるめながら、知らず知らずのうちにその数を数えていました。指先にふれるもち米の粉の感触が、祖母の台所をそのまま呼びさましました。
魔法ではなく
ユナは最初、それを魔法だと思いました。
レシピを開くと、不思議なことに、その料理を必要とする人や場面が現れました。「胃がもたれた日」と書かれたページを開いた日には本当に胃が重く、「うれしいことがある日」と書かれたページを開いた日には本当に小さな合格の知らせが届きました。「雨の日」と書かれたページを開けば、きまって窓の外に雨が降りました。
ユナはしばらく、この不思議な偶然たちをかみしめました。祖母が何か魔法でもかけておいたのだろうか。レシピ帳にどんな力が宿っているのだろうか。夜ごとユナはレシピ帳を枕もとに置いて、あの丸っこい文字を指先でなぞりました。
けれど時がたつにつれて、ユナは違うふうに考えるようになりました。
もしかしたら魔法ではなく、祖母が生涯をかけて知った何かが、そのレシピ帳に込められているのかもしれません。人の心は季節のようにめぐるということ。雨の日には誰もが少し冷え、寂しい人はいつもどこかにいて、うれしいことと悲しいことはかわるがわる訪れるということ。祖母はそれを料理で知っていたのです。
レシピはただ料理の作り方ではありませんでした。それは人の心を世話する方法でした。ある日にはあたたかい汁が必要で、ある日には辛い刺激が必要で、ある日にはただ誰かと向かい合って同じものを食べることが必要なのだということを、祖母は知っていました。
そしてユナはもうひとつ気づきました。不思議な偶然が起きたのではなく、もしかしたらユナ自身が変わったのかもしれません。レシピ帳を開いて料理を作るうちに、ユナはようやく周りを見まわすようになりました。寂しいいとこが見え、一人で暮らす隣のおじいさんが見え、自分の心が冷える日に気づくようになりました。魔法はレシピ帳にあるのではなく、料理を作りながら誰かを思うその心にあったのです。
白いページ
レシピ帳の半分ほどを開いてみたころ、ユナはあることに気づきました。
レシピ帳の後ろ半分は空いていました。何も書かれていない白いページでした。
ユナは最初、祖母が書ききれなかったのだと思いました。けれど白いページの一枚目には、祖母のあの丸っこい字で、短い一行が書かれていました。
「ここから先は、おまえの番だよ。」
ユナは長いあいだその一文を見つめていました。胸の片すみが熱くなりました。
祖母は知っていたのです。自分がいつか去ることを。そしてユナがこのレシピ帳を引き継いでいかねばならないことを。レシピは完成された遺産ではなく、ともに書き継いでいく約束だったのです。
最初の記録
ユナはペンを手にとりました。
何を書こうか長いあいだ悩みました。そのとき数日前、隣の家のおじいさんが一人で暮らしていると聞いたことを思い出しました。おじいさんは少し前に妻を亡くしたのだといいます。ユナは廊下でときどきすれ違うたびに、そのさびしい後ろ姿が気にかかっていました。
ユナは白いページにゆっくりと書きました。
「かぼちゃ粥。一人残された人へ。」
そしてかぼちゃを買ってきて粥を作りました。熟したかぼちゃをやわらかく煮てなめらかにつぶし、もち米の粉をといてとろりと煮ました。甘くてやさしいにおいが台所に満ちました。そのにおいのなかで、ユナはもう一度祖母を感じました。祖母は去ったのではなく、このにおいのなかに、この指先に、この心のなかに、今も生きていました。
ユナは粥を器に盛り、隣の家の戸をたたきました。
戸が開いて、おじいさんの驚いた顔が見えました。ユナは器を差し出して言いました。
「心が冷えていらっしゃるような気がして。お腹があたたかくなると、心もつられてほどけるそうですよ。」
おじいさんの目もとがゆっくりと赤くなりました。それは祖母がユナに言ってくれた、まさにその言葉でした。ユナは知らず知らずのうちにその言葉を伝えていました。記憶はそうやって、料理とともに次の人へと流れていきました。
「ありがとう、お嬢さん。」おじいさんは震える手で器を受け取りました。「家内が逝ってから、誰かにあたたかいものをこしらえてもらったのは……はじめてだよ。」
数日後、おじいさんは空になった器をきれいに洗って返してくれました。器の上には小さなメモが置かれていました。「おかげでおいしくいただきました。今度はわたしがお茶を一杯ごちそうしましょう。」ユナはそのメモを長いあいだ見つめました。料理ひと椀が、人と人とのあいだに橋をかけていました。
続いていくページ
それからユナのレシピ帳には、一ページずつ新しい記録が積み重なっていきました。
「わかめスープ。誰かの誕生日に。」 「キムチチゲ。友と夜どおし語りたい日に。」 「スジョンガ。心を静かに落ち着けたいときに。」
それぞれのページには料理の名前とともに、その日の心が書かれました。ユナはもうレシピをただなぞるだけではありませんでした。自分の手の味で、自分の物語で、レシピ帳を満たしていきました。
そして不思議なことに、ユナが新しいページを書くたびに、その料理を必要とする誰かがきまって現れました。わかめスープを書いた日には友の誕生日の連絡が来て、キムチチゲを書いた日には古い友が一杯やろうと電話をかけてきました。
ユナはもう、それが魔法かどうかなどと問いませんでした。大切なことはほかにありました。料理を作るあいだ誰かを思い浮かべるということ、そしてそうやって思い浮かべた心が、どうにかして相手に届くということ。それで十分でした。
ユナの台所はふたたびあたたかくなりました。半年のあいだ冷たく冷えきっていたその場所に、いまでは毎日何かが煮え、いいにおいがしました。幼いころの祖母の台所がそうであったように。
小さな客
ある春の日、ユナのもとに小さな客が訪ねてきました。
隣のおじいさんの孫娘、八歳のソウンでした。ソウンは休みのたびにおじいさんの家へ遊びに来ていましたが、いつしかユナの台所にもよく立ち寄るようになりました。ユナが料理をするすがたを椅子に座ってながめるのが、ソウンはとても好きなのだといいます。
「おねえちゃん、その帳面はなあに。」
ソウンが食卓の上の古い帳面を指さして尋ねました。ユナは微笑んで帳面を開いて見せました。
「これはね、わたしのおばあちゃんが遺してくれたものなの。料理の作り方が書いてあるんだけど……ただの料理じゃなくて、心の作り方が書いてあるのよ。」
ユナはソウンを横に座らせて、一緒に松餅を作りました。小さな手と大きな手が並んで生地をこねました。ソウンのつたない指先からいびつな松餅ができあがりましたが、ユナにはそれがこのうえなくかわいく見えました。ふと、自分の小さな手を握ってくれた祖母の手が思い浮かびました。
記憶はそうやって、ひとつの台所から次の台所へ、ひとつの手から次の手へと流れていきました。
最後の場面
幾年もの時が流れました。
ユナのレシピ帳は、もう半分よりずっと多く埋まっていました。祖母の字とユナの字が、一冊のなかに並んで収まっていました。丸っこい字と、きちんとした字。二人の手の味が、二人の時間が、そうやって一冊のレシピ帳のなかで出会っていました。
ユナはときおり思いました。いつかこのレシピ帳の白いページがすべて埋まったら、その次はまた誰かの番になるのだろうと。もしかしたらソウンが、もしかしたらまだ出会っていない誰かが。レシピはそうやって、果てしなく続いていく約束でした。
ある雨の日曜日、ユナは台所に立って白菜のみそ汁を作りました。初めてレシピ帳を開いたあの日のように。
湯気がゆっくり立ちのぼりました。そのにおいのなかで、ユナは祖母の声を聞きました。たしかに聞きました。
「火を弱めて、ゆっくりと。急いで煮ると味が逃げる。」
ユナは微笑んで火を弱めました。そして小さくつぶやきました。
「はい、おばあちゃん。ゆっくりやります。」
台所はあたたかい湯気で満ちていました。窓の外には雨が降っていましたが、ユナの心はもう冷えてはいませんでした。
作者のことば
食べ物には不思議な力があります。
あるにおいは、ひとときのうちに私たちを数十年前へと連れ戻します。キムチチゲのにおいに母の台所が思い浮かび、パンの焼けるにおいにどこかの路地が思い出されたりします。科学者たちは、嗅覚が記憶や感情をつかさどる脳の領域ととても近くつながっているからだと説明します。けれどその説明を知らなくても、私たちはすでに体で知っています。食べ物がただお腹を満たすだけでなく、記憶を満たし、心を満たすのだということを。
この物語で祖母のレシピが「魔法」のように働いたのは、もしかすると本物の魔法だからではなく、食べ物が本来もつそのあたたかな力を、ほんの少し誇張してみたからかもしれません。誰かのために料理を作るとき、私たちは自然とその人のことを思います。その気持ちこそが、いちばん古い魔法なのでしょう。
あなたにもそんなレシピがひとつあることを願っています。開いた瞬間に誰かが思い浮かび、作るあいだに心があたたまる、そんな一ページが。