Skip to content
Published on

色彩の心理 — 赤はなぜ熱く、青はなぜ冷たいのか

Authors

はじめに — 赤いリンゴは本当に赤いのか

ここによく熟したリンゴが一つあります。私たちはためらいなく「赤い」と言います。ところが一つ妙な問いを投げてみましょう。その赤は、リンゴにあるのでしょうか、それともあなたの頭のなかにあるのでしょうか。

常識的には当然リンゴにあるように思えます。リンゴは赤く、空は青く、草は緑です。色は物の属性のように感じられます。しかし科学が聞かせてくれる話は少し違います。厳密に言えば、リンゴの表面には「赤」というものが塗られていません。そこには、特定の波長の光をより多く反射する性質があるだけです。その反射された光があなたの目に入り、網膜の細胞がそれを信号に変え、脳がその信号を解釈して、ついに「赤」という経験を作り出します。色は世界にあらかじめ塗られていたのではなく、光と目と脳がともに描き出す合作なのです。

これは単なる言葉遊びではありません。色が「外の事実」ではなく「内で作られる経験」だという洞察は、色をめぐるほとんどすべての興味深い問いの出発点になります。なぜ赤は熱く感じられ、青は冷たく感じられるのか。なぜ同じ赤がある文化では幸運で、ある文化では危険なのか。色は本当に私たちの気分や行動を変えられるのか。これらの問いに答えるには、まず色がどう生まれるのかから覗いてみなければなりません。

この文章は色の科学から出発して色の心理へ、そして色の文化へと進みます。途中で私たちは、もっともらしい通念と検証された事実をせっせと見分けていきます。色に関しては、もっともらしいが誇張された話が際立って多いからです。さあ、赤いリンゴの秘密から始めましょう。


1. 色はどう生まれるか — 光と波長の科学

色の話は光から始まります。私たちが見る光は電磁波の一種で、その波には長さがあります。波長の長い光は私たちの目に赤の系統として、波長の短い光は青・紫の系統として見えます。そのあいだに橙、黄、緑が順に並びます。私たちが「虹の色」と呼ぶこの帯が、人の目が見える光の全範囲です。これを「可視光線」と言います。

興味深い事実が一つ。可視光線は、電磁波という巨大なスペクトルのごく狭い一部にすぎません。その両脇には、私たちの目に見えない赤外線、紫外線、電波、エックス線のようなものが広大に広がっています。私たちが「世界の色」と思っているものは、実は宇宙に存在する光のごく一部に対する私たちの反応にすぎないのです。もし私たちの目が紫外線を見られたら、世界は今とまったく違う姿だったでしょう。実際、ある昆虫は紫外線を見て、花々はその昆虫の目にだけ見える模様で自分を宣伝します。

物体が特定の色に見える原理はこうです。日光のような白色光には、すべての波長が混ざっています。この光が物体に当たると、物体はある波長は吸収し、ある波長は反射します。リンゴが赤い理由は、長い波長の光を主に反射し、残りを吸収するからです。私たちの目に入るのはその反射された光です。つまり色とは「物体が吸収せずに送り返した光」というわけです。黒い物体はほとんどの光を吸収して送り返す光がほぼなく、白い物体はほぼすべての光を均等に反射します。

ここでもう一段深く入ってみましょう。その反射された光が目に入ったあとには、何が起こるのでしょうか。私たちの目の網膜には、光を感知する二種類の細胞があります。一つは暗い場所で明暗を担う「桿体細胞」、もう一つは色を担う「錐体細胞」です。そしてまさにこの錐体細胞が、色知覚の本当の主人公なのです。


2. 三種類の錐体細胞 — 私たちはどうやって百万の色を見るか

人の網膜には、ふつう三種類の錐体細胞があります。それぞれ長い波長(おおよそ赤の側)、中間の波長(緑の側)、短い波長(青の側)にもっとも敏感に反応します。興味深いのは、この三種類だけで私たちが数百万もの色を見分けるということです。どうやってたった三つのセンサーで、それほど多くの色を見られるのでしょうか。

秘訣は「組み合わせ」にあります。ある色を見るとき、三種類の錐体細胞がそれぞれ違う強さで反応します。脳はこの三つの信号の比率を読んで色を判別します。たとえば赤の錐体が強く、残りが弱く反応すれば、私たちは赤を見ます。赤と緑の錐体がともに反応すれば、黄を見ます。三つの基本素材の配合比を変えて無数の料理を作り出すように、脳は三つの信号の組み合わせで色の世界を描き出すのです。

この事実は、カラーディスプレイの原理にもまっすぐ通じます。あなたが今見ている画面のすべての色は、赤、緑、青というたった三つの光の組み合わせで作られています。画面をごく近くで覗くと、小さな赤・緑・青の点が見えます。画面は、私たちの目に三種類の錐体細胞があるという事実を賢く利用し、その三つだけですべての色を真似ているのです。人間の目が三チャンネルのシステムでなかったら、私たちのすべての画面技術はまったく違う姿だったでしょう。

ここで自然に浮かぶ問いがあります。では私が見る「赤」と、あなたが見る「赤」は、本当に同じ赤でしょうか。これは哲学者たちが長く取り組んできた厄介な問題です。私たちは同じリンゴを見て二人とも「赤い」と言いますが、あなたの頭のなかの赤の経験と、私の赤の経験がまったく同じだと証明する方法は、実はありません。色はきわめて私的な経験で、私たちはその経験を直接覗き込めません。私たちが共有しているのは、色の経験そのものではなく、それを指す「赤」という言葉だけなのかもしれません。色の科学が深まるほど、私たちはかえってより妙な哲学の入口に立つことになります。

もう一つ。色知覚は思った以上に「文脈」に振り回されます。同じ灰色の小片も、暗い背景に置けば明るく見え、明るい背景に置けば暗く見えます。同じ色も、隣にどんな色があるかによって違って見えます。一時期インターネットを騒がせた「青いドレスか白いドレスか」という論争は、まさにこの文脈依存性の劇的な事例でした。同じ写真を見ても、ある人は青と黒に、ある人は白と金に見えたのです。私たちの脳が照明をどう仮定するかによって、同じ光がまったく違う色として経験されました。この一枚の写真は、色が「外の事実」ではなく「脳の解釈」であることを、誰もが実感できるようにしてくれました。


3. 赤はなぜ熱く、青はなぜ冷たいのか — 色の心理的連想

ここで文章の題名に戻りましょう。赤はなぜ熱く、青はなぜ冷たく感じられるのでしょうか。この感覚はあまりに強力で普遍的なので、まるで色にもともと温度が宿っているかのようです。

もっともらしい説明は、私たちの経験と連想から来ます。赤と橙は、火、太陽、熱い溶けた鉄のような熱いものの色です。青は、水、氷、日陰、深い海のような冷たいものの色です。私たちは生涯をかけて、これらの色と温度をともに経験してきました。赤いものを見れば温かさが、青いものを見れば涼しさが自然に浮かびます。ですから赤の「熱さ」は、色そのものの物理的属性というより、色と経験が固く絡み合った連想の産物だと見るほうが正確です。

色が呼び起こす連想は温度にとどまりません。赤はしばしば情熱、危険、警告、愛と結びつきます。青は落ち着き、信頼、憂鬱、広大さとつながります。緑は自然、成長、安定、ときに嫉妬を思い起こさせます。黄は日差しと明朗さを、同時に注意と警戒を呼びます。こうした連想のかなりの部分は自然に根を持ちます。赤が危険と結びつくのには血と火の記憶が、緑が安定とつながるのには草と森の記憶が敷かれています。

ところがここで注意すべき箇所があります。色の連想は強力ですが、それがすなわち「色が私たちをそうさせる」という意味ではありません。赤を見ると情熱が浮かぶということと、赤を見ると実際に心臓がより高鳴って情熱的な人になるということは、まったく違う主張です。前者は連想で、後者は因果です。インターネットや自己啓発書には「赤は食欲を促し、青は心を鎮める」といった断定的な主張があふれています。このうち一部はある程度根拠がありますが、かなりの部分はもっともらしく膨らまされた通念です。次の章で、この境界をもう少しはっきり引いてみましょう。


4. 根拠と通念のあいだ — 色は本当に私たちを変えるのか

色が人の気分と行動に影響を与えるという考えは、とても魅力的です。だからこのテーマには、検証された事実と膨らまされた神話が乱雑に混ざっています。落ち着いて見分けてみましょう。

まず、ある程度根拠のある話です。色は確かに私たちの注意と印象に影響を及ぼします。赤のように目立つ色は、注意を素早く引き寄せます。だから警告標識や消火器に赤を使うのは合理的です。また色は強力な「連想」を通じて雰囲気と印象を左右します。落ち着いた青いトーンの空間は安定感を、強烈な赤いトーンの空間は活気を漂わせます。こうした効果は確かに存在します。

しかし、よく誇張される主張も多い。代表的なのが「特定の色が人の性格や能力を変える」といった断定です。色と行動の関係を扱った研究は多いですが、その結果はしばしば一貫せず、効果の大きさも小さく、文脈に大きく左右されます。ある実験で出た小さな効果が、別の条件では再現されない場合がよくあります。ですから「この色を使えば必ずこうなる」といった断定は警戒するほうがよいでしょう。

とくに注意すべきは、色の効果が「色そのもの」から来るのか「文化的学習」から来るのかを見分けにくいという点です。たとえばピンクが心を和らげるという主張が一時流行しましたが、後続の研究は食い違う結果を出しました。たとえ何らかの効果があっても、それがピンクという色の本質的な力なのか、それともピンクを柔らかさと結びつける文化的学習の結果なのかは断定しにくい。同じ色も、それをどう学んできたかによって違うふうに働くからです。

均衡の取れた結論はこうです。色は確かに私たちの注意、印象、雰囲気に影響を与えます。しかしその影響は、魔法のように自動的で普遍的なものではなく、文脈と文化と個人の経験によって変わる微妙なものです。「色が私たちを操る」という言い方は誇張であり、「色は何の影響もない」という言い方も間違っています。真実はその中間のどこかに、いつものように条件と但し書きをつけて置かれています。

こうした均衡感覚は、ただ色にだけ当てはまるものではありません。もっともらしい一行の断定に出会ったとき、「それは連想か因果か、その効果はどれほど大きく、どれほどよく再現されるのか、文化のせいではないか」を問う習慣は、色を超えて世のあらゆる主張に向き合ううえでもよい道しるべになります。


5. 色の文化 — 同じ赤、違う意味

色の連想が自然にだけ根を持つなら、すべての文化が色を同じように感じるはずです。しかし実際にはそうではありません。同じ色が文化によってまったく違う意味を持つ場合が多い。この違いは、色が単に生物学の産物ではなく、歴史と文化の産物でもあることを示しています。

赤を見てみましょう。ある文化圏で赤は幸運と喜び、繁栄の色です。結婚式や祝祭に赤があふれます。しかし別の文脈では赤は危険と警告、禁止の色です。信号機の赤、赤字を意味する「赤い数字」がそうです。同じ赤が一方では祝福で、一方では警告です。

白の事例はもっと劇的です。多くの西洋文化で白は純粋と潔白、結婚の色です。花嫁は白いドレスを着ます。しかし一部の東アジアの伝統で白は、長らく喪服と哀悼の色でした。同じ色が一方では結婚式を、一方では葬式を象徴したのです。色にもともと意味が宿っているなら、こんな正反対の連想は生まれえません。色の意味はかなりの部分、文化が着せてくれた服なのです。

色を指す「言葉」にも興味深い違いがあります。ある言語は青と緑を一つの単語でまとめて呼ぶこともあります。また、ある言語は私たちがただ「青」と呼ぶものを、明るい青と濃い青に分けて、まるで赤とピンクのように別の色として扱います。色の語彙がより細かく分かれている人々が、実際にその色の境界を少し速く見分けるという研究もあります。これは言語が私たちの色知覚にまで微細に手を伸ばしうることを示唆します。もちろん言語が違うからといって色覚を失うわけではありません。ただ、ある色に名前があるかどうかが、その色に注意を向ける仕方を少し変えることはある、ということです。

これらすべての事例が指し示す結論は一つです。色の経験には生物学の普遍的な土台がありますが、その上に文化と歴史が分厚い意味の層を積み上げるということ。私たちがある色を見て自然に思い浮かべる意味のかなりの部分は、実は私たちが育ってきた文化が教えてくれたものです。


6. 色の語彙 — 赤、青、その次

色の名前に関する興味深い発見をもう少し覗いてみましょう。多くの言語を比較した研究者たちは、色の名前が文化ごとに勝手なようでいて、妙に一定の順序に従うという点に注目しました。

ごく単純化して言うとこうです。色の名前が少ない言語は、たいていまず「明るさと暗さ」(白と黒に当たる)を区別し、その次によく赤を別に呼びます。そのあとに緑と黄が、さらにあとに青が名前を得る傾向が観察されました。赤が早く名前を得るのには、血や火のように生存に直結した強烈な経験があったのだろうと推測されます。こうした順序が絶対的な法則ではなく例外もありますが、人間が色を言語でとらえてきた仕方に、ある共通の筋があるという点は興味深い。

ここで一つ慎重になるべき点があります。色の名前が少ないからといって、その人々が色を見られないわけでは決してありません。名前がないだけで、目は同じように色を見分けます。言語が色知覚を完全に決定するという強い主張は誇張です。ただ、名前のある色はより速く気づき、より明瞭に記憶する傾向があります。言語は色を作り出すことはできませんが、私たちが色に注意を向ける仕方を静かに手伝います。

この話は妙な気づきを与えます。私たちは「虹は七色」と習いましたが、虹には実は境界線がありません。それは波長が連続的に変わるなめらかな帯にすぎません。その連続した帯をいくつかの色に切って名前をつけるのは、私たちの文化の選択です。ある文化は虹を五色に、ある文化は六色に見ます。自然は色の帯を広げて置くだけで、そこに境界線を引くのは人間です。


7. 共感覚 — 色を聴き、音を見る人々

色の世界には、もっと神秘的な片隅があります。ある人々は文字や数字、さらには音から色を見ます。こうした現象を「共感覚」と言います。

共感覚を持つ人には、たとえばアルファベットのAがいつも赤く感じられ、Bは青く感じられます。ある人は特定の音楽を聴くと色が浮かび、ある人は曜日ごとに固有の色があると言います。これは比喩ではなく、彼らには実際に起こる知覚経験です。彼らは「Aを赤と関連づける」のではなく、「Aが赤く見える」と言います。

共感覚は一時、単なる想像や比喩と片づけられましたが、今では本物の神経学的現象と認められています。興味深いことに、共感覚を持つ人々のその組み合わせは、生涯にわたって一貫する傾向があります。数十年後に再び尋ねても「Aは赤」と同じように答えます。もう一つ興味深い点は、共感覚が完全に勝手ではないということです。多くの人に似た傾向が観察されることもあります。これは私たちの脳の感覚が、私たちが思う以上に密に絡み合っている可能性を示しています。

実は共感覚は程度の差にすぎず、私たち全員にある程度敷かれているのかもしれません。人々に丸っこい図形ととがった図形を見せて、どちらが「ブーバ」でどちらが「キキ」かと尋ねると、文化や言語を問わず大多数が丸いものを「ブーバ」、とがったものを「キキ」と答えます。音と形のあいだに、私たち全員が共有する秘めた結びつきがあるのです。色とほかの感覚の結合も、もしかするとこうした普遍的な結びつきの、よりはっきりした形なのかもしれません。


8. 色が見えないとき — 色覚多様性とアクセシビリティ

ここまで私たちは色を見る話をしてきました。ところが色を違うふうに見たり、ある色をうまく見分けられない人も少なくありません。よく「色覚多様性」「色覚特性」と呼ばれるこの現象は、色知覚の科学をもう一度はっきりと照らしてくれます。

ほとんどの色覚の違いは、三種類の錐体細胞のうち一つがないか、きちんと機能しないときに生じます。もっとも多い形は、赤と緑を見分けにくい場合です。こうした人にとって赤と緑は、似たトーンに溶け合って見えます。興味深いことに、この形質は遺伝と関わりがあり、統計的に男性により多く現れます。少なくない人がこうした色覚の特性を持って生きています。

ここで重要な点は、色覚の違いが「色を見られない病気」というより「色を違うふうに経験する一つのあり方」に近いということです。彼らも色の世界を豊かに味わっています。ただ、その世界の色の地図が、私たちと少し違うだけです。

この事実はデザインに実質的な宿題を投げます。もしある情報を、ただ赤と緑の違いだけで伝えるなら、赤と緑を見分けにくい人はその情報を逃してしまいます。赤いランプと緑のランプだけで状態を表示する画面、赤と緑の線だけで区分したグラフがそうです。だから「アクセシビリティ」を考えるデザインは、色だけに頼りません。色とともに形、位置、文字、模様を添えて、誰もが情報を読めるようにします。信号機が色だけでなく位置(上・下)でも区別されるのは、よい例です。色覚特性のある人も、一番上が止まれ、一番下が進めという位置の情報で信号を読めます。

色のアクセシビリティを考えることは、ただ一部の人を配慮する次元を超えます。それは「私が見る色がすべての人に同じではない」という事実を受け入れることであり、より多くの人に届くよりよいデザインを作る道でもあります。色の多様性を理解することは、色をより深く理解することと同じです。


9. 色の対比と調和 — ともに置かれたときに起こること

色は、一つでいるときよりともにいるときのほうが面白くなります。色と色が並んで置かれると、互いを押し引きしながら新しい効果を作り出します。

もっともよく知られているのが「対比」です。色相環で互いに向かい合う色、いわゆる補色どうしを並べて置くと、どちらもより強烈に見えます。赤の隣の緑、青の隣の橙がそうです。だから何かを際立たせたいとき、補色対比を使います。スポーツの競技場の芝(緑)の上で、あるチームの赤いユニフォームがやけに目立つのも、この原理です。逆に、似た色どうしを集めると落ち着いた統一感が出ます。

興味深い錯視もあります。同じ灰色でも、赤い背景の上に置くとわずかに緑がかって見え、青い背景の上に置くとわずかに黄がかって見えます。私たちの目が一つの色を見るとき、その補色をともに作り出そうとする傾向があるからです。画家たちは古くからこの効果を知っていました。影に補色を少し混ぜて塗ると、光と色がいっそう生き生きするということを。私たちの目は色を絶対的に見ず、いつもそばにある色との関係のなかで見ます。

色の調和に絶対的な公式はあるでしょうか。画家やデザイナーは長らく、見栄えのよい色の組み合わせの規則を見つけようとしました。補色対比、似た色の調和、暖かい色と冷たい色の均衡といった原理がそうして積み重なりました。しかし色の調和は、数学の公式のようにすっきり割り切れません。どの組み合わせが美しいかは、文化と時代、文脈と好みによって変わります。ある時代に野暮ったいとされた色の組み合わせが、次の時代に洗練の象徴になることもあります。色の調和には確かにある傾向と原理がありますが、その上にはいつも人間の気まぐれな好みが乗っています。


10. 色の活用 — ブランド、広告、そして日常

色が注意を引き、印象を左右するという事実をもっともよく知っているのは、マーケターとデザイナーです。私たちの周りの色は、ほとんどが偶然ではなく意図の産物です。

ブランドを思い浮かべてみましょう。私たちはある会社を特定の色とともに記憶します。赤い飲料の会社、青いソーシャルメディアの会社のように。色は強力な記憶の手がかりで、よく選んだ色一つがブランドの顔になります。だから企業は自分の色をうるさく選び、その色を一貫して守ります。色がすなわちアイデンティティだからです。

色の連想は業種によって違うふうに活用されます。信頼が重要な金融や技術の会社は、よく安定感を与える青を好んで使います。環境配慮や健康を掲げるところは緑を、活気と即興性を強調するところは赤や橙を選びがちです。もちろんこれが鉄則ではありません。同じ業種でも、わざと違う色を使って差別化を狙うこともあります。肝心なのは、色が言葉なしでもメッセージを伝えるということです。

ただ、ここでも均衡が必要です。「この色を使えば売上が上がる」といった単純な公式は信じるに値しません。色の効果はいつも文脈のなかで働くからです。同じ赤も、どんな製品、どんなメッセージ、どんな文化と出会うかによって、まったく違って読まれます。色は魔法のボタンではなく、デザイン全体という文のなかの一つの単語です。よいデザイナーは色一つに頼らず、色と形と文と文脈をともに組み合わせます。

私たちがこうした原理を知ることには、実用的な利点があります。私たちに向けられた色の説得に気づけるからです。スーパーの赤い割引表示、アプリの赤い通知の点、決済ボタンの色一つひとつが、私たちの注意を引くよう精巧に設計されています。その設計を知ったからといって色の力から完全に自由になるわけではありませんが、少なくとも一歩離れて「今この色は私に何をしようとしているのか」を問うことはできます。


おわりに — 色は世界と私の合作

ふたたび赤いリンゴに戻りましょう。今や私たちは、その赤がリンゴだけにあるのでも、私たちの頭のなかだけにあるのでもないことを知っています。それは、リンゴが送り返した光と、その光を受けて信号に変えた目と、その信号を解釈して経験を描き出した脳が、ともに作り出した合作です。色は世界と私のあいだで生まれます。

この事実は妙な慰めを与えます。私たちが見る色の世界は、宇宙に客観的に存在する風景ではなく、私たちの種が描き出した固有の作品です。違う目を持つ生き物はまったく違う色の世界を生き、違う文化は同じ色に違う意味を着せます。赤が熱く青が冷たいというその当然の感覚さえ、実は私たちの体と経験と文化がともに書き下ろした物語なのです。

ですから次に夕焼けを見たり、よく熟した果物を選んだり、誰かの赤い服に目が留まったりするとき、しばし思い浮かべてみてもよいでしょう。今私が見るこの色は、外にただあるのではなく、光と私の目と私の脳、そして私が育ってきた文化がともに作り出した小さな奇跡なのだ、ということを。世界は無彩色の物理的な光で満ちていますが、それを赤に、青に、緑に染めるのは、ほかでもない私たち自身です。

考えてみること

  • あなたがもっとも好きな色は何でしょうか。その色を好きになったことには、どんな経験や連想があったでしょうか。
  • 同じ色が、あなたにとって良い意味と悪い意味を同時に持つ場合はありますか。その違いはどこから来たでしょうか。
  • 身の回りで、色だけで情報を伝えるデザインを探してみましょう。色を見分けにくい人も、その情報を読めるでしょうか。
  • 「この色は人をこうさせる」という主張を聞いたとき、それが連想なのか因果なのか、どう見分けられるでしょうか。

小さなクイズ

  1. 私たちの目で色を担う細胞の名前は何でしょうか。
  2. 人はふつう何種類の錐体細胞で数百万もの色を見分けるでしょうか。
  3. 色相環で互いに向かい合い、並べて置くとより強烈に見える色の関係を何というでしょうか。
  4. 文字や音から色を見るように、一つの感覚が別の感覚の経験をともに引き起こす現象を何というでしょうか。

(答え、1. 錐体細胞 2. 三種類 3. 補色(対比) 4. 共感覚)


参考資料