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実力主義の罠 — マイケル・サンデルの問い

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はじめに — もしすべてが本当に公正だったら

まず小さな思考実験から始めましょう。

ある日、完璧に公正な社会ができたと想像してみてください。親の財産も、人脈も、肌の色も、性別も、もはや人生を左右しません。ただ一つ、あなたの才能と努力だけがあなたの場所を決めます。賢く一生懸命働けば上に昇り、そうでなければ下に残ります。誰も出自のせいで差別されることはありません。

ほとんどの人はこの社会を正しいと感じるでしょう。実際、私たちは幼い頃からこうした社会を夢見るよう教えられてきました。「努力すれば報われる」「成功はあなた自身の手にかかっている」「誰でもやればできる」といった言葉が、その夢の言語です。

ところが、ここで不快な問いが続いてきます。もしその社会が本当に完璧に公正で、誰もが自分の能力にぴったり合った場所に収まったとしましょう。すると、いちばん下にいる人はいったい誰を責められるのでしょうか。もう社会を責めることはできません。差別も不公正もなかったのですから。残る結論は一つです。「自分が足りなかった」。

アメリカの政治哲学者マイケル・サンデルは、まさにこの地点で私たちを立ち止まらせます。彼は2020年の著書『実力も運のうち 能力主義は正義か?(原題 The Tyranny of Merit)』で問います。完璧な実力主義は、私たちが望んだ楽園なのでしょうか、それとも新しい形の残酷さなのでしょうか。

この文章はその問いを追っていきます。ただし、一方の肩を持つためではありません。実力主義を批判する声も、実力主義を擁護する声も、どちらも真剣に聞いていきます。判断は、最後まで読んだあなたに委ねられます。

第一部 — 実力主義という言葉の怪しい誕生

ディストピア小説から生まれた言葉

興味深い事実が一つあります。今日、私たちが良い意味で使う「メリトクラシー(meritocracy 実力主義)」という言葉は、もともと称賛ではなく風刺でした。

この言葉を作ったのはイギリスの社会学者マイケル・ヤングです。彼は1958年に『メリトクラシーの台頭(The Rise of the Meritocracy)』という本を書きました。題名だけ見ると実力主義を称える本のようですが、実際は正反対でした。これは架空の未来を描いた風刺小説であり、ディストピアでした。

ヤングが想像した未来社会はこんな姿です。人々はもはや家柄や財産で地位を得ません。ただ「知能たす努力」で測られた能力(merit)に応じて、すべてが配分されます。試験と測定がすべてを決めます。一見、公正に見えます。

ところがヤングは、この社会が結局どう崩れていくかを描きます。能力で上に昇ったエリートたちは、しだいに傲慢になっていきます。「我々は試験に通り、お前たちは落ちた。だから我々が享受するすべては正当だ」。逆に下に残された人々は、言い訳の種さえ奪われます。昔は「世の中が不公正だから」と言えましたが、今やそれすら不可能です。能力で振るい落とされたという烙印だけが残ります。

ヤングの小説は結局、下にいる人々の反乱で幕を閉じます。彼は、実力主義が新しい階級社会を、もしかするとより残酷な階級社会を生みかねないと警告したのです。

風刺が称賛になってしまった

ところが歴史は奇妙に流れました。ヤングの警告は忘れられ、「メリトクラシー」という言葉だけが生き残って、肯定的な意味として定着しました。政治家は実力主義を約束し、企業は実力主義を誇り、学校は実力主義を教えました。

マイケル・ヤングはこの状況を見て、ひどくもどかしく感じました。彼は2001年、つまり亡くなる直前に新聞へ寄稿し、自分が警告のために作った言葉が、かえって称賛の旗印になってしまったと嘆きました。政治指導者たちが「実力主義社会」を誇らしげに唱えるのを見ながら、彼は自分の風刺が完全に逆に読まれたと感じたのです。

これが実力主義という概念の出発点です。良い言葉なのか悪い言葉なのか、その始まりからすでに論争的だったわけです。

歴史の一場面 — 千年前の実力主義、科挙

ところで、実力主義という言葉が1958年に生まれたからといって、その発想までその時に初めて生まれたわけではありません。試験で人を選び、地位を与えようという考えは、はるかに古いものです。その最も印象的な事例が、東アジアの科挙(かきょ)です。

一つ場面を描いてみましょう。千年前の中国、ある寒い夜明けです。一人の若者が狭い試験場の仕切りの中に入り、扉が閉まります。彼は数日間、その小さな空間で食べ、寝ながら答案を書きます。隣の仕切りでは、緊張に耐えきれず倒れる人もいます。合格者の名簿が張り出される日、ある貧しい家の息子は一夜にして役人となり一族を興し、ある人は数十年応試し続けても、ついに名を載せられないまま老いていきます。

隋と唐で始まり千年以上続いた科挙は、出自ではなく試験の成績で役人を選ぼうという巨大な実験でした。原理だけ見れば驚くほど近代的です。誰の息子かではなく、何を知っているかで人を評価しようというのですから。実際、科挙は平民にも出世の道を開き、学問を尊ぶ文化をしっかりと根づかせました。

しかし、科挙の影もあわせて見てこそ公正です。試験を準備するには長い年月を勉強だけに費やせる余裕が必要で、その余裕は結局、ある程度暮らし向きの良い家から生まれました。貧しい家の子が合格することは確かにありましたが、それは規則というより例外に近いものでした。また試験がすべてを決めるとなると、人々は定められた経典を丸ごと暗記し、定型化された答案を書くことに人生を捧げました。試験に出ない実用的な知識や創造的な思考は後回しにされました。千年前の実力主義は、今日私たちが直面する問題、すなわち機会の不平等と試験万能主義の弊害を、すでに小さな規模で先取りして見せていたわけです。

興味深いことに、近代ヨーロッパが官僚を試験で選ぶ制度を導入したとき、一部の改革者は東アジアの科挙から着想を得たと伝えられています。出自ではなく試験で人材を選ぼうという発想が、東西を越えて流れていったわけです。今日、私たちが当然と考える公務員試験、入学試験、資格試験の遠い祖先の一つが、まさにあの寒い夜明けの試験場だったのです。

科挙の物語は、私たちに二つのことを同時に思い起こさせます。一つは、能力で人を選ぼうという理想が、人類にとっていかに古く魅力的な夢であったかという点であり、もう一つは、その夢が初めから光と影をともに帯びていたという点です。千年が過ぎた今も、私たちは同じ夢を見、同じ影と格闘しているのかもしれません。

第二部 — 実力主義の魅力は本物だ

批判へすぐに進む前に、公正であるために一つははっきり押さえておかねばなりません。実力主義には本物の魅力があります。世界中がこの理想を受け入れたのには理由があるのです。

何と比べるかが重要だ

実力主義を評価するとき、私たちはしばしば「完璧な公正」と比べます。しかし歴史的に、実力主義の本当の競争相手は完璧な公正ではなく、それ以前にあった制度でした。すなわち貴族制、世襲、縁故主義(ネポティズム)、身分制といったものです。

こうした古い制度では、あなたが何をできるかは重要ではありませんでした。誰の子として生まれたか、どの家柄か、どの身分か、それがすべてを決めました。どれほど賢い農民の子でも貴族にはなれず、どれほど無能な貴族の子でも高い地位を占めました。

このような世界と比べれば、実力主義は巨大な進歩です。出自ではなく能力で人を評価しようという考えは、数多くの人々に、初めて上に昇る梯子を架けてくれました。貧しい家の子でも勉強ができれば医者になれる、平凡な出身でも実力さえあれば会社を育てられるという約束。これは確かに人類が闘って勝ち取った貴重な価値です。

効率と正義、二兎を追う

実力主義を擁護する人々は、二つの根拠を挙げます。

第一は効率です。最も有能な人に最も重要な仕事を任せることが、社会全体にとって有益だというのです。私たちは最も腕の良い外科医に手術してもらいたいのであって、ただ良い家に生まれた人に手術してほしいわけではありません。飛行機の操縦士も、橋を設計する技術者も同じです。能力に応じて地位を配分すれば、社会はよりうまく回ります。

第二は正義です。努力と才能に報いることは、それ自体が正当に見えます。徹夜で勉強した人が遊んでばかりいた人より良い結果を得るのが正しいという直観、より多く貢献した人がより多く受け取るのが公平だという直観。実力主義はこの強力な道徳的直観の上に立っています。

この二つは、軽く無視できる主張ではありません。実力主義を批判する人でさえ、この魅力を否定はしません。問題は別のところにあります。

動機という見えないエンジン

擁護者たちがとくに力を込めて語ることが、もう一つあります。動機です。

小さな場面を思い浮かべてみましょう。ある会社で、誰がどれだけ一生懸命働こうと、結果が良かろうと悪かろうと、みなに同じように報いると宣言したとしましょう。最初は平等に見えて良いかもしれません。しかし時が経つとどうなるでしょうか。夜遅くまで残って問題を解いていた人も、新しい方法を考え巡らせていた人も、しだいに問い始めます。「わざわざ自分がもっと頑張る理由があるだろうか」。努力と結果のつながりが断たれると、人を動かしていた見えないエンジンがゆっくりと止まります。

擁護者たちはまさにこの点を指摘します。能力に応じた報酬は、単に誰かに多く与える問題ではなく、社会全体がより良いものを生み出すよう引っ張っていく装置だというのです。より良い薬を開発し、より安全な橋を架け、より便利な道具を作る数多くの努力の底には、「うまくやれば報われる」という約束が敷かれています。この約束が常に完璧に守られるわけではありませんが、それがまったく消えた社会を想像するのは、もっと難しいことです。

もちろん、批判者はここに留保をつけます。人を動かす動機が、もっぱら物質的な報酬だけなのか、というのです。好奇心、使命感、同僚を助けたい気持ちのように、報酬と無関係な動機も確かに存在します。しかし擁護者たちの核心は依然として有効です。努力と結果のつながりを軽々しく断てば、社会が払う代償は決して小さくない、ということ。これは実力主義を、ただの古い神話と片づけられなくする重い根拠です。

第三部 — サンデルの第一の刃 運の問題

サンデルの批判は精緻です。彼は実力主義が嘘だとは言いません。むしろ、実力主義が約束を十分に守れていないという点と、たとえ完璧に守ったとしても道徳的な問題が生じるという点を、順に掘り下げていきます。

第一の刃は運です。

「自分が優れていたから成功した」という錯覚

問いを一つ。あなたが賢い頭を持って生まれたのは、あなたの功績でしょうか。あなたが勤勉な気質を受け継いだのは、あなたが努力した結果でしょうか。あなたが教育を重んじる親のもとで、本の多い家で、安全な地域で育ったのは、あなたが選んだことでしょうか。

少しだけ正直に考えてみれば、私たちが持つ最も重要な資産の多くは、私たちが作ったものではありません。才能は遺伝子の抽選で受け取った贈り物であり、その才能がたまたま私たちの時代に高く評価されることも幸運です。

サンデルはこの点を強調するために、一つの例を挙げます。もしバスケットボールではなく別の能力が社会の富と名誉を決める時代だったなら、優れたバスケットボール選手の才能は、ただ平凡な特技にとどまっていたでしょう。どんな才能を持って生まれるかも運ですが、その才能をちょうど高く評価してくれる社会に生まれるかも、同じく運なのです。

この考えは、実はサンデル一人のものではありません。彼に先立って、政治哲学者ジョン・ロールズは1971年の『正義論(A Theory of Justice)』で似た洞察を示しました。ロールズは生まれ持った才能の分布を「道徳的観点から見て恣意的なもの」と呼びました。誰が賢く生まれ誰がそうでないかは、道徳的に定まったことではなく、自然の偶然にすぎないというのです。だからロールズは、才能がもたらす利益を共有の資産のように扱い、最も不利な立場の人々にも役立つよう社会を設計すべきだと主張しました。

努力さえ運に負っている

ここでよくある反論が出ます。「才能は運だとしても、努力は自分のものではないか。私は本当に一生懸命やった」。

サンデルはこの反論を尊重しつつ、もう一歩踏み込みます。努力する能力、つまり自分を鍛え、粘り強く耐える気質さえ、その多くを養育と環境と気質に負っているというのです。毎朝早く起きて勉強できる意志力はどこから来たのでしょうか。それを育ててくれた家庭と学校と文化がありました。同じ努力をしても、ある環境では報われ、ある環境ではいくら努力しても梯子そのものがないのです。

これは努力をけなそうとする言葉ではありません。努力は確かに尊く、称賛に値します。ただサンデルが投げかける問いはこうです。「私の成功は、まるごと私の功績だろうか。その中に、私が受けた幸運の分はないだろうか」。この問いに正直に答えるだけでも、私たちの態度は少し変わります。

第四部 — サンデルの第二の刃 傲慢と屈辱

運の問題は、実は序章にすぎません。サンデルが本当に心配しているのは、実力主義が私たちの心に植えつける二つの感情です。勝者の傲慢と敗者の屈辱。

勝者の傲慢

完璧な実力主義を信じる社会で、成功した人は自然とこう考えるようになります。「私は自分の力でここまで来た。これらすべては、私が当然受け取る資格があるものだ」。

この考えは危険です。自分の成功がまるごと自分のおかげだと信じた瞬間、二つの心が消えるからです。一つは感謝です。自分を助けてくれた親、師、社会、そして運への感謝が消えます。もう一つは謙虚さです。「自分も別の環境に生まれていたら、今の場所にいなかったかもしれない」という謙虚さが消えます。

感謝と謙虚さが消えると、その場所に傲慢が入り込みます。そして傲慢は自然と、下へ向けた軽蔑へとつながります。「成功できたのにしなかった人々」「努力しなかった人々」というまなざしがそれです。

敗者の屈辱

傲慢の鏡に映ったものが屈辱です。完璧な実力主義社会で失敗した人には、逃げ場がありません。

昔の身分制社会では、低い身分の人も少なくともこう考えることができました。「これは自分のせいではなく、世の中が不公正だからだ」。この考えは苦しいものですが、同時に自尊心を守る盾でもありました。

しかし、すべてが能力で決まるとみなが信じる社会では、その盾が消えます。失敗はそのまま「自分が足りない」という判決になります。社会が公正であればあるほど、逆説的に、失敗の責任はより重く個人に返ってきます。これが実力主義の最も残酷な逆説です。公正さが大きいほど、敗者の傷が深くなるということ。

サンデルは、この屈辱感が現代政治の大きな亀裂とつながっていると見ます。学歴と専門性を備えたエリートが「あなたが取り残されたのは十分に努力しなかったからだ」とそれとなく語る社会で、そのメッセージを毎日受け取る人々は深い侮辱を感じます。そしてその侮辱はしばしば怒りとなり、ときにエリート全体への反発として噴き出します。

似た声たち

サンデルだけがこうした話をしたのではありません。アメリカのジャーナリスト、クリストファー・ヘイズは2012年の著書『エリートの黄昏(Twilight of the Elites)』で、実力主義のエリットがいったん上に昇ると梯子を蹴り上げ、自分の子に有利な構造を作ると指摘しました。実力主義が自ら世襲貴族制へと変質しうるという警告です。

法学者ダニエル・マルコヴィッツも2019年の『実力主義の罠(The Meritocracy Trap)』で似た診断を下しました。彼は実力主義が貧しい人だけでなく、その頂点にいるエリートさえ、果てしない競争と消耗へ追い込むと見ました。みなが敗北するゲームだというのです。

第五部 — 学歴という分類機械

サンデルがとくに注目する現場があります。教育、なかでも名門大学をめぐる競争です。

大学が身分を分ける門になるとき

現代社会で、良い大学の卒業証書は単なる学歴の証明を超えて、事実上、社会的地位を分ける関門になりました。サンデルはこれを「選別(sorting)」機能と呼びます。名門大学は教える場であるだけでなく、誰が上へ行き誰が下へ行くかをふるい分ける巨大な分類機械になった、というのです。

問題は、この選別が見かけほど公正ではないところにあります。名門大学の入試は能力で学生を選ぶと言いますが、その能力を育てる機会そのものが、すでに不平等に配分されています。幼い頃から良い教育、塾、豊かな経験、人脈にアクセスできた子と、そうでなかった子が、同じ試験会場で競います。そしてその結果は、しばしば親の境遇をそのまま映し出します。

サンデルはアメリカの名門大学の新入生構成について、最上位所得層の家庭出身の学生の比率が最下位所得層出身よりはるかに高いという資料を引用します。能力で選ぶという門が、実際にはすでに有利な位置にいた人々を再び上へ送り返す通路になりやすい、というのです。

学位という新しい身分証

こうなると「学歴主義(credentialism)」という現象が生まれます。何ができるかよりも、どの卒業証書を持っているかが、人を評価する基準になるのです。学位が一種の身分証のように働きます。

サンデルは、これが学位を持たない多数に送るメッセージを憂慮します。社会がますます学歴で人を並べるほど、四年制大学を出ていない人々は、自分が二流市民として扱われていると感じます。手で働き、ものを作り、人を世話する数多くの労働が、その価値に比べて尊重されなくなっていきます。

ここでサンデルが投げかける核心の問いが「労働の尊厳(the dignity of work)」です。すべての価値ある仕事が大学の卒業証書を要求するわけではありません。ところが実力主義が学位を成功への唯一の道にしてしまうと、別の道で社会に貢献する人々の自尊心と社会的承認が削り取られます。

第六部 — では実力主義を捨てよという話なのか

ここまで読むと、サンデルが実力主義を廃棄せよと主張しているように見えるかもしれません。しかし、そう単純ではありません。そして実力主義を擁護する人々の反論も、決して弱くはありません。では公正に両方を聞いてみましょう。

擁護者たちの反論

実力主義を擁護する人々はこう言います。

第一に、「運の論理を最後まで押し進めると危険だ」。すべてが運なら、努力も運で責任も運なら、私たちは人に何の責任も問えなくなります。しかし日常は責任と自律を前提に回っています。努力の意味を完全に否定すれば、誰も苦労して何かを成し遂げようとしなくなるかもしれません。

第二に、「代案のほうが悪い」。実力主義が不完全だからといって、その代案である縁故主義や世襲や抽選が、より正義であるわけではありません。欠陥を指摘することと、より良い代案を示すことは別の問題です。実力主義を揺さぶれば、その空席を何が埋めるのかという問いに答えねばなりません。

第三に、「能力に応じた報酬は人々の動機を生かす」。努力すればより良い結果を得るという信念は、社会を動かす強力なエンジンです。このつながりを断てば、革新と献身の原動力も一緒に弱まりかねません。

第四に、「機会の平等をもっと広げればよいではないか」。本当の問題は実力主義そのものではなく、出発点が不平等だという点だという反論です。それなら答えは、実力主義を捨てることではなく、すべての人に本当に公正な出発点を保証するよう、教育と福祉を強化することだという主張です。

サンデルが実際に提案すること

サンデルの答えは、実力主義をまるごと捨てようというのではなく、その重みを減らし、態度を変えようという方に近いものです。彼が投げかける提案をいくつか整理すると、こうなります。

成功に対する態度を変えようというのが第一です。成功した人は、自分の成功に運と他者の助けが宿っていることを認め、謙虚さと感謝を取り戻そうというのです。

労働の尊厳を取り戻そうというのが第二です。大学の学位がなくても、社会に貢献するすべての労働が尊重される社会を作ろうというのです。仕事が単なる金もうけではなく、共同体に貢献する仕方とみなされるとき、人は尊厳を感じます。

共通善(the common good)を改めて問おうというのが第三です。実力主義は各自が自分のことだけ考える倫理をあおりやすいものです。サンデルは、私たちが互いに負い合う存在だという感覚、ともに良く生きるとは何かを、改めて議論すべきだと言います。

興味深い事実が一つあります。サンデルは名門大学の入試をめぐって、一定の資格基準を超えた志願者の間ではくじ引きで選ぼうという、挑発的な提案まで投げかけました。入試競争の狂気をやわらげ、合格が純然たる自分の功績ではなく幸運の混じった結果であることを、みなが認めるようにしようという趣旨です。この提案に同意するかどうかは別として、それが私たちに投げかける問いは重いものです。

第七部 — 「応分の報い」という古い哲学論争

ここで少し、実力主義の底に横たわる、より古い哲学的な問いを覗いてみる必要があります。

報酬は何に基づくのか

私たちが「あの人はそれに値する」と言うとき、その値する資格(desert 応分の報い)はいったいどこから来るのでしょうか。哲学者たちは長らくこの問題をめぐって争ってきました。

一方には、応分の報いを強く信じる立場があります。人は自分の行為と努力に応じて、当然受け取るべきものがあるというのです。正直に働いた人は報酬を、怠けた人はそれに見合う結果を受けるのが道徳的に正しいという直観です。この立場から見れば、能力に応じた報酬は単なる効率ではなく、正義そのものです。

もう一方には、応分の報いを疑う立場があります。ロールズが代表格です。彼は、生まれ持った才能も、その才能を育てた環境も、さらには努力する性向さえも、その多くが偶然の産物であるなら、それに基づいて誰かが「当然」より多く持つ資格があるとは言いがたいと見ました。ロールズにとって正義の社会とは、人々の応分の報いを合わせてやる社会ではなく、偶然から生じた不平等を、すべての人に、とりわけ最も弱い人に役立つよう調整する社会です。

両方とも一理ある

興味深いのは、この論争でどちらの側も完全には勝てないということです。

応分の報いを疑う側の強みは正直さです。私たちの成功に宿る運を率直に認めさせ、運の悪い人々への思いやりを呼び起こします。しかしこの論理を最後まで押し進めると、厄介な結論に至ります。もし努力さえ運なら、犯罪者の責任も運で、善い行いの功績も運になります。すると称賛も非難も、賞も罰も、すべて意味を失います。ほとんどの人はこの結論を受け入れがたく感じます。

応分の報いを信じる側の強みは、責任と自律の感覚を守ってくれることです。人を単なる環境の産物ではなく、自ら選択し責任を負う主体として扱います。しかしこの論理を最後まで押し進めると、運の役割を見過ごし、弱者をあまりに簡単に責めてしまう危険があります。

サンデルの立場は、興味深いことに、この二つのあいだのどこかにあります。彼は努力と責任の意味を完全には否定せず、しかし私たちが自分の功績を過大評価する傾向を警戒せよと言います。正義の問題を超えて、私たちが互いをどう見るかという態度の問題へ議論を引き上げるのが、彼の独特な点です。

第八部 — 自然の抽選を、もっと深く覗く

運の問題はこの文章で何度も登場しましたが、一度くらいは正面から、もっと深く覗いてみる価値があります。哲学者たちはこれをしばしば「自然の抽選(natural lottery)」と呼びます。

三度の抽選

私たちがこの世に生まれるとき、私たちの知らないうちに、少なくとも三度の抽選が行われます。

第一は遺伝子の抽選です。どんな知能、どんな気質、どんな健康、どんな容姿を持って生まれるか、私たちは選べません。音楽的な才能を持って生まれた子も、数学的な直観を持って生まれた子も、その才能を注文して受け取ったわけではありません。

第二は生まれた場所の抽選です。どの国、どの都市、どの家庭に生まれるかも、私たちの選択ではありません。同じ潜在能力を持つ二人の子が、一人は良い学校や図書館の近い地域で、もう一人はそうしたものがまったくない場所で育つなら、二人の出発線は最初から違います。

第三は時代の抽選です。私たちは生きる時代も選べません。どんな才能が貴く扱われるかは、時代ごとに異なります。弓をうまく射る能力が富と名誉をもたらした時代があり、コードをうまく書く能力がそうである時代もあります。同じ才能でも、どの時代に生まれるかによって、黄金にもなれば無用の長物にもなります。

この三度の抽選の結果を合わせると、私たちが出発線に立つ前から、すでに多くのことが定まっていると気づきます。だからといって努力が無意味だという話ではありません。抽選で受け取った手札をどう使うかには、確かに私たちの分があります。ただ、私たちが手にした札そのものは、その多くが私たちの選んだものではないという事実を忘れないでおこう、ということです。

それでも責任は必要だ — 擁護者の応答

ここで擁護者たちは重要な反問を投げかけます。すべてが抽選なら、私たちはどうやって社会を運営できるのか、というのです。

考えてみましょう。もし私たちが「あなたの努力も結局は運だから、責任を負う必要はない」とみなに言ったら、何が起きるでしょうか。患者を救おうと夜を徹する医師も、橋を安全に設計しようと繰り返し検算する技術者も、その献身が結局は運に還元されるなら、何のために励むでしょうか。社会は、人々が自分の行動に責任を負い、努力に報酬が伴うという約束の上で回っています。この約束をまるごと否定すれば、私たちが頼る多くのものが、一緒に崩れる危険があります。

ですから、最も思慮深い立場は、どちらか一方をまるごと選びません。運の巨大な役割を正直に認めつつ、だからといって努力と責任の意味を捨てはしないのです。自然の抽選を認めることは、弱者を責めまいとする謙虚さの根拠となり、責任を認めることは、私たちがより良い選択をするよう後押しする力となります。この二つは互いに矛盾のように見えますが、成熟した社会は二つを同時に抱えようと努めます。

第九部 — 実力主義という概念の流れを一目で

これまでの流れを一枚の年表にまとめてみましょう。

1958  マイケル・ヤング『メリトクラシーの台頭』を出版
      -> 「meritocracy」という言葉を風刺/ディストピアとして初使用

1971  ジョン・ロールズ『正義論』を出版
      -> 生まれ持った才能は「道徳的に恣意的」という洞察

2001  マイケル・ヤング、新聞寄稿で嘆く
      -> 自分の警告が称賛に裏返った現実を批判

2012  クリストファー・ヘイズ『エリートの黄昏』
      -> 実力主義エリートが梯子を蹴り上げるという診断

2019  ダニエル・マルコヴィッツ『実力主義の罠』
      -> 実力主義は勝者さえ消耗させるという批判

2020  マイケル・サンデル『実力も運のうち』
      -> 傲慢と屈辱、労働の尊厳、共通善を問う

第十部 — 二つの陣営を並べて見る

批判と擁護を一つの表に向かい合わせると、争点がより鮮明になります。

争点実力主義を批判する側実力主義を擁護する側
出発点出発線がすでに不平等だそれでも身分制よりはるかに公正だ
運の役割成功の大きな分が運に負っている運を強調すると責任が消える
勝者の心傲慢と軽蔑を招く正当な誇りも認めるべきだ
敗者の心屈辱と自己卑下を強いる動機と奮起のきっかけにもなる
学歴身分を世襲する分類機械だ能力を見分ける合理的な信号だ
処方謙虚さ、労働の尊厳、共通善機会の平等拡大、出発線の補正

この表では、どの欄も一方が完全に正しく他方が完全に間違っているとは言いがたいものです。まさにその点が、この主題を長く噛みしめさせる理由です。

第十一部 — 小さな思考実験たち

概念をより生き生きと感じるために、いくつか短い場面を想像してみましょう。

場面その一 双子の分かれ道

同じ才能を持つ双子がいるとしましょう。一人は教育を重んじる安定した家庭で育ち、もう一人は幼い年齢で生計を担わねばなりませんでした。二十年後、二人の人生が大きく分かれたとしたら、その差はまるごと二人の努力の差でしょうか。同じ種でも、どの土に落ちるかが結果を変えます。この場面は運と環境の重みを思い起こさせます。

場面その二 清掃員と弁護士

都市が止まったとき、私たちが最も切実に必要とする仕事は何でしょうか。衛生、ケア、輸送、食糧といった仕事が止まれば、社会はたちまち麻痺します。ところがこうした必須労働の多くは、大学の卒業証書を要求せず、報酬も社会的承認も低い場合が多いのです。実力主義が、ある仕事には過剰な栄誉を、ある仕事には過剰な無視を送っているのではないか、と問わせます。

場面その三 もし抽選だったら

名門大学が資格を備えた志願者の中から抽選で新入生を選ぶと想像してみましょう。合格した学生は「私は運が良かった」と言うでしょう。落ちた学生は「私は足りなかったのではなく、運がなかった」と言えます。傲慢も屈辱も、いくらかやわらぎます。同時にこんな疑問もわきます。最も優れた人を選び出すべき地位まで抽選に委ねられるでしょうか。この場面は、実力主義をやわらげることが同時に何を失わせるのかを示します。

場面その四 二枚の履歴書

採用担当者の机の上に二枚の履歴書が置かれていると想像してみましょう。一枚目の主は、名の知れた大学を優れた成績で卒業しました。二枚目の主は大学を出ていませんが、十年間現場で同じ種類の仕事をしてきて、誰よりもその仕事をよく知っています。求人には「四年制大学卒業以上」という一行が記されています。その一行のために、二枚目の履歴書は人の目に触れる前にふるい落とされます。

この場面は、学歴主義が働く仕組みを凝縮して見せます。そもそもその仕事をやり遂げる能力があるかを問う前に、学位という身分証から確認するのです。もちろん学位は、多くの場合役に立つ信号です。しかしそれが唯一の関門になるとき、別の道で能力を積んできた人々は、出発線に立つことすらできずに脱落します。実力主義が本当に能力を見る制度なのか、それとも学位を能力と取り違える制度なのかを、この場面は問い直させます。

場面その五 無知のヴェール

最後に、ロールズが提案した有名な思考実験を借りてみましょう。あなたがある社会をゼロから設計しなければならないと想像してみてください。ただし、一つ条件があります。あなたはその社会で自分がどんな人として生まれるか、まったく分かりません。金持ちか貧乏人か、賢いかそうでないか、健康か病弱か、どれも知ることができません。ロールズはこの状態を「無知のヴェール(veil of ignorance)」と呼びました。

このヴェールの後ろで、あなたはどんな社会を設計するでしょうか。自分が最も運の悪い人として生まれるかもしれないと知っているからこそ、あなたはおそらく、いちばん下にいる人さえ人間らしく暮らせる社会を選ぶでしょう。この思考実験は、私たちに妙な鏡を突きつけます。自分がどこに生まれるか分からないなら、私は今の私たちの社会をそのまま選ぶだろうか。この問いは、運と公正さについての私たちの直観を、一気に鮮明にしてくれます。

第十二部 — 一緒に解いてみるクイズ

読んだ内容を点検する短いクイズです。まず答えを思い浮かべてから、下の解説を確認してみてください。

問題1 「メリトクラシー(meritocracy)」という言葉を最初に作った人と、その意図は何だったでしょうか。

問題2 実力主義を擁護する側がよく挙げる核心的な根拠二つは何でしょうか。

問題3 サンデルの言う「勝者の傲慢」と「敗者の屈辱」は、それぞれどんな心の喪失から生じるでしょうか。

問題4 ジョン・ロールズが生まれ持った才能について使った表現は何で、それは何を意味するでしょうか。

問題5 サンデルが名門大学の入試に関して投げかけた挑発的な提案は何でしょうか。

問題6 東アジアの科挙は、実力主義の理想と限界をどのように同時に示しているでしょうか。

問題7 「学歴主義(credentialism)」とは何で、それがなぜ問題になるのでしょうか。

問題8 ロールズの「無知のヴェール」とはどんな思考実験で、それは私たちに何を問わせるでしょうか。

解説です。

解説1 イギリスの社会学者マイケル・ヤングが1958年の『メリトクラシーの台頭』で初めて使いました。その意図は称賛ではなく風刺と警告でした。実力主義が新しい階級社会を生みかねないというディストピア的な警告です。

解説2 効率と正義です。有能な人に重要な仕事を任せれば社会がよりうまく回るという効率の論理、そして努力と才能に報いるのが正しいという正義の論理です。これに加えて、貴族制や縁故主義より公正だという点もよく言及されます。

解説3 傲慢は感謝と謙虚さの喪失から生じます。自分の成功をまるごと自分のおかげとみなすとき、他者と運への感謝が消えます。屈辱は言い訳の盾の喪失から生じます。すべてが公正だと信じる社会で、失敗はそのまま自己責任の判決になります。

解説4 ロールズは生まれ持った才能の分布を「道徳的観点から見て恣意的なもの」と呼びました。誰が賢く生まれるかは道徳的に正当化されることではなく、自然の偶然にすぎないという意味です。

解説5 一定の資格基準を超えた志願者の間ではくじ引きで合格者を選ぼうという提案です。入試競争をやわらげ、合格が純然たる自分の功績ではないことを認めさせようという趣旨です。

解説6 科挙は、出自ではなく試験の成績で役人を選んだ千年前の実力主義の実験でした。平民にも出世の道を開いた理想は明確でしたが、長く勉強できる余裕のある家庭に有利で、試験万能主義の弊害を生みました。実力主義の光と影を同時に示す歴史的事例です。

解説7 何ができるかよりも、どの卒業証書を持っているかで人を評価する傾向を学歴主義といいます。学位が能力の有用な信号であるときもありますが、それが唯一の関門になると、別の道で能力を積んだ人を排除し、学位のない労働の価値を削るという点で問題になります。

解説8 自分がその社会でどんな境遇に生まれるかをまったく知らない状態で、社会を設計させる思考実験です。運の悪い人として生まれる可能性を念頭に置かせることで、最も弱い人さえ人間らしく暮らせる社会を選ぶよう、私たちの直観を導きます。運と公正さについて改めて問わせる装置です。

第十三部 — 日常へ降りてきた実力主義

ここまでの話は、いささか大げさに聞こえるかもしれません。哲学者と政治、名門大学と自然の抽選。しかし実力主義は、実は私たちの日常の隅々にしみ込んでいます。

私たちが何気なく使う言葉

「あいつは努力しないからだ」。「だから勉強しておけばよかったんだ」。「成功には必ず理由がある」。私たちはこうした言葉を、よく、何気なく口にします。これらの言葉そのものが間違っているわけではありません。努力は大切で、怠けの結果はあるものです。ただサンデルが気づかせるのは、こうした言葉がある瞬間、刃になりうるという点です。誰かの失敗をまるごとその人のせいにした瞬間、私たちは、その人がどんな出発線から始めたのか、どんな運に出会えたか出会えなかったかを、見なくなります。

反対側の言葉も同じです。「私は自分の力でここまで来た」。この言葉もまた半分は真実です。確かに励んだのでしょう。しかしこの言葉がすべてになった瞬間、私をここまで連れてきた数多くの手、すなわち親と師と友と社会と運は、視界から消えます。

小さな態度の転換

サンデルの提案は、大がかりな制度改革だけでなく、もしかするとこうした小さな言葉とまなざしの転換から始められるのかもしれません。成功を語るとき「運が良かった」という一言を添えること。失敗した人を見るとき「あの人にはどんな事情があったのだろう」ともう一度思い浮かべること。学位のない人の仕事を、その価値だけ尊重すること。こうしたささいに見える態度が積み重なれば、私たちが互いを扱う温度が変わります。

実力主義の最も微妙な罠は、制度のどこかだけにあるのではなく、私たちが毎日他人と自分を評価する心の習慣の中にあるのかもしれません。だからこの議論は、結局のところ政策の問題であり、同時にきわめて個人的な心の問題でもあるのです。

そしてまさにそれゆえに、この文章の結論は、どちらか一方の手を挙げて終わるものではありません。批判者の洞察も、擁護者の反論も、それぞれの立場から真剣に噛みしめるに値する真実を含んでいます。大切なのは、もしかすると正解を選ぶことではなく、その問いを手放さないことなのかもしれません。

おわりに — では、あなたの答えは

もう一度、はじめの思考実験に戻りましょう。完璧に公正な実力主義社会。そこで、いちばん下にいる人は誰を責められるのでしょうか。

サンデルの洞察は、この問いが私たちの思ったほど単純ではない、という点にあります。公正さを大きくすることと、人間を尊厳をもって扱うことは、いつも同じ方向を指すわけではありません。ときに、最も公正なシステムが、最も残酷な判決を下すこともあります。

だからといって、実力主義を捨てることが答えでしょうか。それもまた単純ではありません。実力主義は貴族制と縁故主義を崩した人類の貴重な武器であり、効率と正義という本物の価値を抱えています。実力主義を揺さぶれば、その空席を何が埋めるのかという重い問いがついてきます。

もしかすると核心は、実力主義を捨てるか守るかの二者択一ではなく、それに向き合う私たちの態度なのかもしれません。成功したとき、運と他者の分を覚えておく謙虚さ、失敗した人を二流市民と見ない尊重、そして私たちが結局は互いに負い合う存在だという共通善の感覚。実力主義の罠から抜け出す道は、もしかするとシステムを変える前に、心を変えることから始まるのかもしれません。

最後に、噛みしめてみる問いをいくつか残します。

あなたの最大の達成を思い浮かべてください。その中に、あなたが受けた幸運の分はどれほどあるでしょうか。

あなたが何気なく「努力しなかった人」とみなした誰かは、実はどんな出発線から始めたのでしょうか。

大学の卒業証書がなくても私たちの社会を支える数多くの仕事を、私たちはその価値だけ尊重しているでしょうか。

もし実力主義に代わる制度をあなた自身が設計しなければならないとしたら、あなたは何を能力の基準とし、運の分をどう扱うでしょうか。

千年前、科挙の前に列をなした人々と、今日入試や就職に備える私たちは、本当に違う世界を生きているのでしょうか。

無知のヴェールの後ろで、自分がどこに生まれるか分からないとしたら、あなたは今の私たちの社会をそのまま、もう一度選ぶでしょうか。

そして最も難しい問い。より公正な社会とより温かい社会は、いつも同じものでしょうか、それともときに私たちはどちらか一つを選ばねばならないのでしょうか。

これらの問いに正解はありません。ただ、ともに問うだけでも、私たちは少し傲慢でなく、少し優しい社会へと一歩近づけるかもしれません。実力主義を支えるか崩すかを決める前に、まず私たちの傍らにいる勝者と敗者を、どんな目で見つめるか。もしかすると、そのまなざしを選ぶことこそ、私たち一人ひとりに与えられた最も小さく、そして最も重要な選択なのかもしれません。

参考資料